仕事が忙しく、なかなかブログを書くゆとりがなかったのと、持病による視線恐怖症の症状が強く出たり、Twitterの凍結は免れたものの、どうしても今後のことを考えざるを得ず、消耗してしまい、ブログに一時的に鍵をかけたりした。
今後も鍵をかけるタイミングがあるかもしれないけれど、「調子が悪いんだなぁ」とそっとしておいてくださるとありがたいです。
そうしてTwitterでの宣伝などを打ち切って、ほとんどTLを見なくなったので、ふたたびここを本格的に動かしていこうかと考えている。
優先順位としては、仕事>家事>ブログ・創作という位置づけに変えざるを得ない。
独身の頃は小説のことだけを考えていれば良かったけれど、世の中が不安定な状況ということもあり、またTwitterの凋落によってネットでの副業のプラットフォームが揺らいでしまったことはやはり大きい。
創作だけで食べていける世の中でもないし、ネットのビジネスモデルも変わったと判断せざるを得ない。ようやく得た仕事をきちんとこなすことにまずは集中して足元を固めていきたい。そうした話を主人とも交わして、主人も「仕事は大事だからね」と語ってくれた。
そういうわけで、ここでの更新は時には間が空くことになるかもしれない。
今日は久々に句集を読みたくなり、かねてから買って積んでいた、小津夜景『花と夜盗』と、高橋睦郎『花行』を読んだ。
いずれもページをめくるたびに感嘆してしまい、ここ二年ほどはすっかり俳句から遠ざかっていたけれど、再び詠んでみたいという気持ちが湧き起こってきた。
とはいえ、私の俳句はどうにも藤原月彦の影響が大きすぎて、なかなかそこから脱することができないのだけれど。
短歌よりも俳句の方が好きな時期が長かったなと今にして思う。
俳句を詠んでいた時期は、季語の魅力にずいぶんと惹きつけられて、日々の彩りを感じていたし、短歌を詠むようになってからも、季語を取り入れたいと願ってきた。
愛猫・冴ゆの名も、俳句歳時記から探して命名したほど、私は季語に対して愛着を感じている。
ただその試みが上手くいったとは云えないし、短歌に関しては私などよりもよほど上手い人を間近で見てきているので、今さら戻ったところで、形になるかどうかわからないのだけれど。
ただ、短歌を中途半端に投げ出してしまったという後悔は未だにあって、まだ試したいことを果たさないまま離れてしまうと、後々まで悔やむことになるのは目に見えている。
もう一度腰を据えて短歌を作るなり、俳句を詠むなり、短詩型の文芸と向き合ってみたら、また違う可能性も見えてくるかもしれない。
今の私は自分自身の実力に対して、かなり否定的な見方をしてしまっているけれど、それでも人と比べて落ち込んでばかりもいられない。
詩を極めたい、依頼された小説も書かねばならないという状況の中なので、どこまで可能なのかはわからないけれど、今年中とは云わず、もう数年かけて、長いスパンで向き合ってみるのもいいのかもしれない。
追記
主人と飲みの席で小津夜景の話をしところ、短歌読書会のお相手のまさやまさんを交えて三人で読書会をしてもいいかもねという話になった。
実現するかどうかはわからないが、まさやまさんと再び読書会をしたいという気持ちはシェアしていたため、夜が開けてひと段落したらご連絡を差し上げるつもりでいる。