100分de名著『ディスタンクシオン』を読んだ。
100分de名著『ディスタンクシオン』途中。SNSはまさにハビトゥスの闘争の場なのだなということを実感する。趣味の殴り合い。Twitterに居づらさを感じる要因にはこういう社会学的な背景があったのかと、ようやく納得できた。最終的に「私とは何か」を問わざるを得ない、SF的な魅力がある本だと思う。
— 雨伽詩音@春まで創作休業中 (@poesy_rain) 2020年12月15日
というかここのところ関心を持っていた中流崩壊のトピックもそうだけども、社会学に興味があるのだなということが改めて分かった。大学でもナショナリズム論や社会心理学など、いくつか社会学の講義を受けたけども、こうして本を読んで知識を深めることはやはり重要。
— 雨伽詩音@春まで創作休業中 (@poesy_rain) 2020年12月15日
はじめはとても面白く読んでいたし、自分自身の関心が少子化や中流崩壊といった社会学的なテーマに向けられていることが改めて分かったのは収穫だった。
しかし、だんだん後半になるにつけ、地方公務員の娘で、高校から推薦で都内の有名私立大学への進学が決まっていた自分自身が、小学校から高校に至るまで、日々学校で嫌がらせを受けていたことを思い出し、なんとも複雑な気持ちになってしまった。
勉強ができる、教師に目をかけてもらえる、都心の大学への進学がほぼ既定路線で決まっている、さらに地方においては所得がわりと良いと見なされる地方公務員の娘だというだけで、いじめの対象になった。
私は高校時代に発達障害と診断を受けていて、友達をうまく作れなかったということも原因のひとつなのだろう。
そのいじめは端的に云えば、文化資本の差の問題だということが、この本を通じて明らかになったのだ。
勉強が好きなこと、幼い頃から読書に熱中していたこと、両親がクラシックが好きで、年数回クラシックのコンサートに連れて行ってもらっていたこと、地方公務員の娘であること……それらそのものが文化資本のある特定の位置(おそらく中ほどより少し上)を示すというのだから、おそらく間違いない。
中学生の頃にも名前すら知らない女の子たちに嫌がらせを受けたことがあった。
彼女たちは私の小説に出てくるラム肉の描写を取沙汰して、ラム肉美味しかった? とひたすら訊いてきた。幼稚というほかなかったので、ほとんど無視したが、それでも一向に止む気配がない。
あまり詳細はよく覚えていないが、授業で顔を合わせるたびに様々に嫌悪感をかき立てる言葉や、気分の悪くなるような仕草を無遠慮に投げつけられてうんざりしたものだ。
要するに彼女たちは私が妬ましくてしょうがなかったのだろうし、高校に入っても嫉妬から逃れることはできなかった。
先生に認められること、目標とする大学を目指すこと、そして作家になるという夢を追いかけることでしか、私は生きてこられなかった。
そうでもなければ嫉妬に絡めとられて、早々に不登校になっていたかもしれない。
私は負けん気が強かったので、何が何でも学校に行くと決めて、どんな嫌がらせを受けた翌日も学校へ行ったが、それが火に油を注ぐ結果となったのだろう。
言葉による嫌がらせはだんだんエスカレートして、品性の著しく欠けたセクハラまがいのことも散々云われた。
デリカシーがないのね、と思わずこぼして、先生がそれを聞いておられたのか「本当にデリカシーがないわね、あなたたちは」と彼女達に対しておっしゃった一幕もあった。
これでも一応地元ではお嬢様学校という扱いのミッションスクールに通っていたのだが、進学校ではなかったためか、私の周囲だけが特殊だったのか、その内情たるや散々なものだった。
とにかく上を見上げてやり過ごす他なかったし、そういう人たちのことを擁護する余地は少なくとも私には一切ないと思っている。
よって本書の趣旨である、文化資本がいくらか低い位置にある人間たちのことを無批判に受け入れることは、私にはできない。
彼女達は少なくとも私の尊厳を著しく貶めたし、彼女達に様々な言葉を浴びせられなければ、こうして心を病むこともなかっただろうと思う。
自分がともすれば高飛車で不遜な輩だと思われるということに関しては、よくよく自覚しているし、それを深く恥じ、自分自身を嫌悪してもいる。
しかし、文化資本の低い位置にある人間がそれをどう評価するのも勝手だが、生まれつき文化資本の中ほどの位置にあったというだけで、様々に不躾な言葉を投げつけられたり、無遠慮な目で見られたりするというのは、あまりに理不尽だと思う。
できるだけ腰を低くして、生きてこざるを得なかったのは、そうして足を引っ張りつづける存在が常につきまとっていたからであって、そうしたものから自由になれるのならば早く自由になりたい。
そういう点において、大学は初めて私が自由というものを肌身に感じた場所でもあった。
上京して通っていた大学では、自分よりも遥かに文化資本の高い人々としか接することはなかったので、不快な思いをするということはほとんどなかった。
やはり地方という土地柄があまりにも特殊だったのだろう。
シャーリィ・ジャクスンの小説に描かれる、不快感の濃度を500倍にしたような環境で育ったのだなと今改めて思う。
ずいぶんと自分語りが長くなってしまった。
他者理解の重要な指標として、この本では文化資本について語られているが、これで理解が進んだとは到底私には思えない。
むしろ昔のことを様々に思い出して、嫌悪感をかき立てられたと云っていいし、闘争を浮き彫りにする側面も持っていると思わざるを得ない。
そしてこうして書いてみると、自分がいかにも保守主義に染まった人間であるということが否応もなく良く分かる。
次は『保守主義とは何か』という本を読むつもりでいる。
そうしてふたたび階級論について学ぶということもいいのかもしれないが、社会的弱者の目線に立ってものを考えるということが、理論的な部分では可能であったとしても、心理的な部分で難しいという現実を考えると、この問題を私が扱うのはいくらか手に余るのかもしれない。
また上に書いた件について検索してみると、次のようなツイートに出会った。
内藤朝雄のいじめ分析が衝撃的であると同時に反感も買うのは,社会文化資本に富んでいたり知的に優れていたりすることで将来社会的強者になる可能性の高い子どもを弱者側の子どもがいじめて潰す,というある種の「弱者の自己防衛」パターンを主要な分析対象にしているからだと思う。
— 渡邊芳之 (@ynabe39) 2012年1月30日
本記事を公開するかどうか、だいぶ迷ってしまったのだが、こうした裏づけがあるというだけでも心強い。
社会的弱者によるいじめは少なからず存在するのだろう。その一例として上のことを読んでいただければありがたい。