相も変わらず低調な日がつづく。
春先とうつの悪化と月経困難症と医師の入院と低気圧と花粉症という、幾重にも負の要素が組み合わさり、どうしようもない。
ロキソニンも切らしたし、漢方薬と効き目が弱くなってきた常服薬でしのぐ他ない。寒気はひどいし、身動きがまったく取れない。
こういう時には眠るのが苦手な私も、白旗を揚げて眠るしかない。
起きているのだか眠っているのだかよくわからない状態で、三十分ほどこたつで横になって目覚めた。iPadでかけていた音楽は覚えていないから、おそらく眠っていたのだと思う。
眠りにはいくつかのレイヤーがあって、無意識と意識が交錯する地点にとどまって眠るのは少々もどかしい想いがするのだが、それはそれで気持ちが良い。
ぼんやりとしながら、病弱な人間は本当に無力だと思う。
鬼滅の刃の累のことをふと考えて、彼が力を欲したのも無理はないと思いつつ、珠世さんが余命幾ばくもなかった愈史郎を鬼にしたことも思い出して、鬼という役割が延命や絶望の淵から手を伸ばさずにはいられない、ひとつの切実な希望なのだと思い至る。
病者という存在が生き長らえるための切実な想いが鬼の悲しみの根源のひとつとしてあって、それを救う炭治郎という構図は、菩薩という知人の評も頷ける。
我が身を振り返ってみれば、病と私という人間の価値観は切っても切り離せない関係にある。
幼い頃の記憶は母が重度の偏頭痛で何日も寝込んでいる様子と結びついている。
幼い頃はそんな母が貴い人のように思えてならなくて、そうした想いが「翠の鳥」を書く糸口となった。
私自身もまた、二十代半ば以降は、持病で臥せる日がつづいている。昨年は一年中不調でほとんど家から出られなかった。
実家の家族と暮らしていた時期に寝こむときには、締め切った襖で囲まれた和室に閉ざされて眠ったものだった。
そういう体験がこの作品を書く動機となったのだけれど、ここのところふたたびそうした病者を扱った小説を書いてみたいという想いが頭をもたげはじめている。
病と自分自身が不可分であるのなら、小説を書くに際して自分のことを書かざるを得ない以上、どこかで向き合って書くしかないのだろう。
とはいえ私はやはりどこかで美に昇華しなければ書けない節があるので、どうしても耽美的な作風に寄らざるを得ないのだろうなと思っている。
機が熟すまではひたすら本を読んで待つしかない。今すぐにというわけにはいかないし、時間はかかるだろうが、それでも頭の中で構想を練りつづけたい。
もちろん世の中に数ある小説も読まなくてはならない。
私はサナトリウム文学の中でも横光利一の「春は馬車に乗って」「花園の思想」が一等好きで、その影響を多分に受けている自覚がある。
そして何気なく検索すると、乙女の本棚シリーズからこの作品が出ていることを知った。
少しミーハーな香りがするのだけれど、かねてからこのシリーズは気になっているし、「春は馬車に乗って」は近代文学の数ある名作短編小説の中でも特に好きな作品なので、いずれ機会があれば手に取ってみたい。