ANIRON

ひとりごと日記

2021.03.12 俳句と鑑賞

まえがき

以下の内容はもともと3/12の日記にまとめて書くつもりだったのだが、ずいぶんと長くなってしまったのと、内容としてきりがいいので、ふたつに分割することにした。

この日記では俳句とその鑑賞について書く。

 

 

昨夜は限界を超えたところで日記を書いてしまったせいか、その後深夜テンションになり、「私はホラーを書くぞ!!!!!」と喜び勇んで処分しようと思っていたホラー小説を段ボールから取り出して本棚に並べ、ついでに本棚の整理をはじめて、結局寝たのは2:30ごろだった。

おかげで朝に因果応報といわんばかりに不調に見舞われ、どう考えてもこの体調で小説を書くなんて無理だと思い至った。

なかなかあきらめはつかないのだけれど、今無理をしても仕様がない。

18歳からメンタルの病気を患って、それ以来ずっと病気を受け入れようとしてきたのに、どうしてもあきらめられない夢のために健康をも犠牲にしてきた20代を経て、30代になってようやく落ち着いたと思っていた。

正直なところとても悔しいし、まだそう簡単にあきらめはつかないだろうけれど、今は病気を受け入れて、それに合わせた創作の形を模索しなければならない。

そうした想いと、新たな目標をこちらの記事に書いた。

evie-11.hatenablog.com

 

そうした葛藤を抱きながらひるまえほっとを観ていたら、俳句茶房が最終回だという。

これまで気になってはいたのだけれど、どうしても世に一般に云うところの写実的で俳味を味わうための俳句になじめない節があって、これまでNHK俳句ともども観ることを避けてきた。

正直なところ私には俳味というものがよくわからないし、耽美主義を掲げて俳句を詠んできたので、そうしたものを遠ざけたいという想いも少なからずあった。

それでも改めて取り上げられた俳句を見てみると、不思議とその味わいがすっとなじんで入ってきて、佳句というものは主義主張を問わず、その良さを味わえるものなのだと当たり前のことを感じる。

それが卓越した選句の目の賜物なのだろうし、改めて俳人という存在の大きさを実感した。

以前読んだ禅の本に、警策には褒めるために与える場合もあり、その判断は経験を積んだ禅僧の素質が問われるという趣旨のことが書かれていた。

選句もまた選者の力量が問われるものなのだろうと思う。

また出演していた俳人は、とにかく俳句を「たくさん詠んで、たくさん捨てること」「推敲に推敲を重ねること」の大切さを説いておられた。

私にはなかなかこの基礎的なことができていないと実感し、もっと謙虚な気持ちで俳句と向き合わねばという想いを新たにした。

 

そういう経緯もあって図書館から借りてきた、石田波郷のエッセイ集を読み進めた。

病に臥しながらも俳句を詠んだという裏表紙の文言に惹かれて借りたのだが、文章全体に気品と風情があり、また爽やかな風が吹き抜けるような軽みがある。

俳人という職業のなせる技なのだろうと、またも俳人に対して尊敬の念を抱きながら、波郷の人となりに想いを馳せた。

中でも印象的なのが戦時中に芭蕉の句集を携えたがったことと、病に臥せりながら本を欲してやまなかったことだった。

娯楽もさほどない時代とはいえ、やはり昔の人は本に対する意識がまったく違うなと舌を巻く。書物を求める気持ちの切実さを改めて肌で感じて、畏敬の念さえ覚えてしまったのだった。