低気圧の影響もあり、今日はふたたび一日低調だった。
致し方ないので朝から凍頂烏龍茶を淹れていただいた。
それからも調子が上がらないので、久しぶりにヴィクトリア・シークレットの「ラブスペル」をつけてみる。
甘やかな香りにほっと癒された。
何かと匂いの強い香水は苦手でほとんどつけないのだけれど、こうしたボディミストはすぐに香りが飛ぶので使いやすい。
できればもっといろんなものを揃えてみたいのだけれども、リサーチ不足でなかなか揃えられずにいる。
調べてみると、比較的安価でいろんなブランドがボディミストを出しているらしく、少しずつ買って試してみるのもいいかもしれない。
元はといえば、朝吹真理子のエッセイに触発されて香水にあこがれたのだけれど、かつて持っていたものはほとんど使わずじまいで処分してしまったし、少し身の丈に合わない気がしてしまって、どうしても気後れしてしまう。
香りがいつまでも残ると、主人との日々の食事の席にも響いてしまう気がする。
その分ボディミストはそこまで気負わずに使えるのでありがたい。
寝る前に使ってもいいだろうし、今日のように体調がすぐれない時の気分転換にさっと身にまとってもいいだろう。
人のための香りではなく、あくまでも自分が楽しむための香りとして、もう少しいろんな場面で使えるといいなと思う。
それから松井冬子展の図録「世界中の子と友達になれる」を再読した。
低調なので再読。当時展覧会に足を運んで観た時には圧倒されたものだが、何年経ってみてもその衝撃は色あせない。中でも「この疾患を治癒させるために破壊する」「喪の寄り道」「転換を繋ぎ合わせる」「ただちに穏やかになって眠りに落ち」が好きで、これらは自薦画集「髪の房」にも採録されている。桜の季節になると松井冬子が恋しくなってしまう。桜の匂わせるタナトスの香りを誰よりも克明に感じ取っている人のひとりなのだろうと思わずにはいられない。
松井冬子は好きな画家のひとりで、横浜の美術展にも行ったし、主人と飯田橋にある成山画廊にも足を運んで幽霊画を観たのがなつかしい。
当時はまだ学生で、今よりはいくらか健康的で、都心に数ある画廊通いに明け暮れていたのだった。
ちなみに当時通っていた美容室にも松井冬子の画集が置かれていたのを覚えている。
美的感覚の優れた美容師がひとりで経営している美容室で、居心地は良かったのだけれど、いかんせん腕に難があって通わなくなってしまった。
当時のことをあれこれと思い出すと、今よりもずいぶんと元気だったなぁと思うのだが、そうして元気なうちに青春時代を過ごせたことに、ひとまず感謝すべきなのだろうと思う。
最近周囲のあれこれを聞くにつけても、主人と恋人同士だった頃に足しげく美術館に出かけられる体力気力があったのは幸いだったと感じる。
コロナ禍もあり、またここのところ調子を崩していて、なかなか遠出ができずにいるので、出かけられるうちに、行けるところには行っておくべきなのだという想いを新たにした。
それから昼食を摂って食後にコーヒーを淹れて、リモートワーク中の主人にも差し入れをして、塚本邦雄『詩歌博物誌』を読みはじめた。
塚本邦雄の面目躍如といった感のあるエッセイで、古今東西の知識を披瀝しながら、古典詩歌に触れつつ、美食家としての自負が感じられる文章に入り浸った。
私は塚本邦雄の短歌は好きだけれども、そのフォロワーがどうにも好きになれず、自分自身も塚本邦雄のフォロワーとなることに少しためらいを抱いてしまう。
偉大な歌人だということは少なからず分かっているつもりだし、神保町の古書店で署名本も買って架蔵している。とはいえ、それでもそのフォロワーであると自負することがある種の軽薄さを免れないのが悲しい。
本は何冊か持っていて、『眩暈祈禱書』は何度も読み返すほど好きな一冊なのだが、文庫の方はまだ読めていない。
早く読まねばと思いつつも、少し距離を置いておきたいというジレンマもあってもどかしい想いをしている。
それから俳句を詠んだ。
どうにもここのところ精度が良くないのだが、それでも詠まずにはいられない。
俳句について書くとさらに長くなりそうなので、それはまた創作ブログに譲ることにする。
それから夜には昨夜完走したゆるキャンにつづいて、バナナフィッシュ一話を観たあと、主人が「しにゃごはん」さんのレシピで、サーモンとアボカドの塩麹漬けを作ってくれた。
カニの茶碗蒸しも添えてくれて、魚介が好きな私のためにサービスしてくれたそうで、心遣いがとてもうれしかったし、ありがたかった。
主人は魚介が苦手で、普段家で魚介類をいただくことはほとんどないのだけれど、そんな主人が魚介でもてなしてくれたことに心から感謝したい。