大方のことはこちらの記事に書いたので重複は避けるが、昨夜読んだ漫画でトラウマを掘り起こされて、昨夜から今朝の朝方にかけてすさまじい抑うつ状態に陥ってしまった。
眠れないまま徹夜して、今日はその状態からなんとか生還して、放心状態で一日を過ごした。
フィクションはやはり暴力装置にもなりうるのだなと思う。素人ながら創作に関わっている人間として、その危険性もよくよく分かっておかねばなるまい。
漫画のタイトルは伏せておくけども、これをもって他山の石としたい。
つい先日他者表象の暴力性について書いたけれども、それをその漫画によってド直球で抉り抜かれて、深刻なダメージを受けることになった。
やはり他者表象を扱った本を読まねばと思う。
哲学は畑違いなので、基礎的なところから積み上げる必要がある。
正直なところ私に理解が追いつくかあまり自信がないのだが、いつかは読まねばなるまい。
最近読んだ論文は素人にも理解の追いつくもので、他者表象の問題について建設的な主張を展開していた。
災害を語り伝えるメディア表現: 〈他者〉表象から〈自己〉語りへ
https://www.sgu.ac.jp/soc/ssi/papers/31.pdf
当事者でなければ語ることはできないとする私の主義主張とは異なって、当事者と関わりを密接に持つことで、他者を語ることから自己を語ることへと転換を試みるという論旨で、これは災害だけでなく、あらゆるマイノリティの問題にも適用可能な提起だと感じた。
またそうしたマイノリティを扱う上で問題をクリアしていると感じた作品も挙げておく。
ペトス『亜人ちゃんは語りたい』という漫画だ。
タッチはライトながらも、マイノリティとして生きる「亜人(デミ)ちゃん」たちと、人間である主人公との心の交流を繊細な描写で丹念に描く。
人間同士の心の差異や性質の違いという、人間の本質に迫る重いテーマを扱いながらも、そこに向ける主人公のまなざしの優しさに心を癒される。真に優れた物語、「善き物語」はこういうものを指すのだろうと思わずにはいられない。
ネタバレは伏せるが、読んでいて何度涙したか分からないし、主人にも友人にも勧めた。
今年読んでいる漫画では間違いなくベスト3に入る作品になるだろう。
こうしてみると、別のブログで扱った方がいいような内容になってしまったが、他者表象について考えた前日譚もあり、こちらのブログに載せておくことにする。
また今日の出来事については上記のブログ記事と重複するので、割愛しつつ書くが、今日は落ちこんでいたこともあり、主人から家事を休んでいいとの言葉をもらったので、ありがたくゆっくり過ごした。
主人が元気のない私を気遣って、ディナーに誘ってくれて、夕食はパスタ屋さんのディナーセットをいただいた。
文学について話をして、満ち足りた時間を過ごし、書店に寄って何冊か気になる本を心に留め置いたのだけれど、かねてより気になっていた「趣味どきっ!」北欧スタイルのテキストは買うか買うまいか少し悩む内容だった。
本は迷ったら買えという至言もあるし、買うべきなのかもしれないが、いかんせん読むべき本も買うべき本も多くて手が回りそうにない。
他に気になったのはこちらの三冊。
梨木香歩『草木鳥鳥文様』は装丁の圧倒的な美しさに惹かれた。
『雪月花のことば辞典』は選出されている語がやや軽薄な感があるので買うかどうかはわからないが、俳句を詠むのなら一冊あってもいいかもしれない。
もちろん歳時記は別に持っているのだけれど、読み物として面白いものであることに違いはないだろう。
それから帰宅してルピシアのストロベリー&ルバーブをいただきながら、BANANA FISH8〜10話を観た。とんでもない鬱展開に見舞われて、アッシュの涙が美しいながらもひたすら悲しい。やりきれなさに包まれて、主人とため息を付き合った。
私はどうしても英二というキャラクターが好きになれないし、CPにするなら断然マックス×アッシュなのだけれど、そういうCP論さえ投げ捨てたくなるような人間の壮絶な悲しみに打ちのめされる。
アッシュというキャラクターを描くのも、他者表象の文脈から無縁ではいられないのだけれど、それでもここまで徹底して虐げられた者の苦しみを掘り下げられると、もうぐうの音も出ない。
村上春樹はマテリアルが大きいものは作者の手に余る場合が往々にしてあるし、マテリアルが小さいものの方がかえって重要な意味を持ちうるということを『職業としての小説家』で説いている。
戦争とドラッグと児童虐待という、そのマテリアルとしては最重量級のものをBANANA FISHは扱っているわけで、これを扱うにあたっては単なるBLという視点だけでは語れない。
虐げられた人間を扱うことがことは、並大抵の気持ちではできないことなのだなと、原作者の覚悟を感じずにはいられない。
それは「闇の腐女子」とか「性癖」などというライトで莫迦げた言葉では到底語れないし、話が進むごとにBANANA FISHのストーリー展開は容赦なくアッシュからあらゆる愛情を奪ってゆく。
その先に光はあるのか、あるいは宮沢賢治の説くような「ほんたうのさいわい」はあるのか。BANANA FISHは確実に宮沢賢治の系譜に連なる作品だと思う。
まだ光は見えないが、いずれ救済があると願っていたい。