昨日の希死念慮はどこへやら、思いのほか調子が良かった。
夕方以降に友人と会う約束があったからかもしれない。
朝食を作っていると、てっきり先に食べたのかと思った主人も欲しいというのでふたり分を作った。
相変わらずアメリカ風プレートにハマっている。
それからしばらくすみっコ農園をプレイして、家事を片づけて出かけた。
友人とのことは重複するのでここには書かない。
ただこのコロナ禍でなかなか会うに会えない状況がつづいていて、久しぶりに会えたことを心から喜ばしく思っている。
戻れない場所もあるけれど、こうしてつづいていく関係があることに感謝したい。
それから帰宅する途中で主人が書店に寄りたいと云うので、立ち寄った。
かねてから買うつもりだった『俳句』4月号と、NHKテキスト『漢詩を読む』を買った。
まだまだ欲しい本があったので載せておく。
現段階ですでに書籍費が嵩んでいるので、なかなか手が出ないのだが、図書館等を利用して読むことにしたい。
またそろそろ本が増えてきて、どうにも減らせない状況になっているので、電子書籍等の利用も考えなければならない。
紙の本の方が好きなので、あまり電子書籍に依拠したくはないのだけれど、それでも電子書籍で買えば充分という本も中にはある。うまく使い分けたい。
それから帰宅して主人と話した。
しばらくの間アニメ談義に花を咲かせて、いろいろなことを語り合ったけれど、そのあと主人に「きみのことを本当の意味で理解できる人はいない。それでも医師が理解できないきみのことを励まそうとしてくれたことを分かってあげてほしい」と云われた。
実際のところそう考えた方が健全なのだろうなと思う。
こうして考えたことをブログ等に綴っても、私の考えていることの十分の一も伝わっていない気がする。
人間が他人を100%理解することなどできないし、だからそこに孤独が生まれる。
その孤独が耐えがたいと感じていたけれど、それこそアニメか小説でもない限り、互いの心の傷を癒すことも、それを理解することもできないのだと思う。
絶望というよりもあきらめに近い。
だからこそ人は物語を必要とするのだろうし、今私は切実にBANANA FISHを求めるのだろうと思う。
実のところだんだん円盤が欲しくなってきてしまっていて困っている。
また孤独感というと、今、私は斯波六郎『中国文学における孤独感』という本を読んでいる。
この中の陶淵明の詩が心に響いたので引用しておきたい。
萬族各有託
孤雲独無依
曖曖空中滅
何時見餘暉
万族(ものみな)は各(おのがじ)し託(たの)むところあるに
孤雲(ちぎれぐも)のみ独り依(よるべ)ぞなき
曖曖(うすかげ)りつつ空中(なかぞら)に滅(き)え
何(いず)れの時か余(あま)んの暉(ひかり)に見(あ)わん
人間は皆何かしらの孤独を抱きながら、それでも生きるしかないのだということを思わずにはいられない。
陶淵明の詩にはまったく明るくないのだが、この詩はとても気に入ったので、他にも作品を読んでみたい。
またも長くなってしまった。
最後に主人に句集の構想についてアドバイスをもらったので、メモ程度に書いておく。
俳句一本で売るのは難しいだろうから、エッセイを併記すると読みやすくていいかもしれないとのこと。
そうなるとまたなかなか作るのが難しいのだが、俳句と散文詩とのセルフコラボはこれまでにも何度か書いてきたし、エッセイを書いてみるのもいいのかもしれない。
また最近読んだ本だと石田波郷のエッセイ句集が面白かったので、参考にしてみるのもいいのかもしれない。
また塚本邦雄も参考になりそうだ。個人的にはいろいろと感じるところの多い歌人ではあるのだけれど、それでも私のやりたい方向性で攻めていくならばやはり読む必要がある。
ひとまず予約していた図書館本を借りて読みつつ、積読本も崩していきたい。