ANIRON

ひとりごと日記

2021.03.29 日記とTwitterとBANANA FISH

朝から晩まで抑うつ状態がつづいた。

やりきれないので夕方に仮眠を取って、それからいくらか楽になったので、やはり休息は必要なようだ。

医師からはじっとしているとさまざまなことを考えるので、とにかく無理矢理にでも家事をしたり身体を動かした方が良いと云われたのだが、到底そういう元気がない。

電話受診だったし、どこまで自分の体調が医師に伝わっているのか、今ひとつ確証を持てずにいる。

 

あまりにも負のループがつづくので、いっそTwitterに戻ろうかとも思ったのだが、ツイートした途端にリプといいねが飛んできて、いかんせんまとわりつくような視線に耐えきれなかった。

すみっコ農園も公開設定にふたたび戻したものの、人に観られているという感覚に耐えられずにふたたび非公開にした。

もろもろあって過敏になっているので、今の私には閉ざされた場所や、観る人が限られた空間の方が落ち着くのかもしれない。

本来ならばここだって非公開にしてもいいのだけれど、毎日閲覧してくださっている方もいらっしゃるし、その方々に支えられて日々をなんとか送っているので、公開のまま書いていきたい。

 

またTwitterに戻りたくない理由として、別ブログにさまざまな記事を書いたけれど、今はこの日記に少しずつ思考の蓄積が溜まってきたということも挙げられる。

Twitterではなかなかこういう風にじっくりと物事を考えることはできないし、ログとして保存可能な場所を選びたくなるのは、司書のなり損ないの性なのかもしれない。

たとえば他者表象云々に関しては、時間をかけてじっくり向き合わなければ自分なりの考えを導きだすことはできなかっただろう。

即時的に答えを求められる場、自分の一度きりの140字の言葉があっという間に世界に発信されて誤読される場では、おそらく私は落ち着いて文章に想いを託すことができない。

とはいえここだって私の考えのすべてを託せる場所ではないし、そういう場所はどこにもないのだけれど。

 

それから選書をTwitterに準拠したくないという気持ちも強い。

あの場所にいると、どうしても読む本が偏ってしまうのが難点だったのだ。

書店にいても「この本はTwitterの偏狭な趣味の人々に受けそうだな」とおぼしき本がつい目に留まってしまうけれど、本来読書というものは自分の意思によって選ぶものであって、他人の影響は私はできるだけ退けておきたい。

読書メーターをやっているのも良し悪しなのだが、読書メーターの場合はよほど興味を惹かれない限りは他者の読んでいる本を実際に手に取ることは稀なので、まあいいかと思っている。

bookmeter.com

どうにも、とある仕事上の付き合いのあった人に「あなたは影響されやすいから自分の軸を持った方がいい」と云われたトラウマがなかなか抜けないらしく、それをずっとコンプレックスに思っていた。

Twitterから離れた今は、自分の意思で本を選べるようになったし、そこに他者が介在する余地はあまりない。読書とは本来そうあるべきだし、私自身も幼少期からそうして本を選んできた。

そうして少しずつひとりの人間として生きる勘を取り戻していきたいと今は思う。

他人に自分の多くの部分を委ねて生きる生き方は、やはり私にはそぐわない。

 

それから俳句を詠んだ。

消耗しきっているからなのか、ここのところ詠む俳句のことごとくに力がない。

耽美から少し離れ、Twitterと離別し、そして友人と決別してしまった私には、拠るべきところが何もない。

それでも前に進まねばならないという決意だけを固く抱いている。

どんなに挫けそうになっても、その意思だけは高く掲げていたい。もう元の場所には戻れない。

music.apple.com

ここのところずっとKing Gnuを聴いていて、「Prayer X」はエンドレスリピートしているのだけれど、「白日」の嘆きと決意がこめられた歌詞が今の私の心には一番響く。

アニソンから少し離れて、ふたたびJ-ROCKに戻ってきて、結局のところどんなにポジティブな言葉で不安を上塗りしても、それはまやかしなのだと思うようになってしまった。

『絶望名言』の記事にも書いたけれど、今はこうして自分の気持ちに寄り添ってくれる音楽を切実に求めている。

aniron.hatenablog.com

それがたとえ人口に膾炙したものであろうと、手あかにまみれたものであろうと、音楽を聴いている私と音楽との間には何ものも介在しないのだから、それでかまわない。

Twitterの悪口をまた書いてしまうけれど、私が先日お会いした長年の友人から手ほどきを受けたポストクラシカルをTwitter民がこぞって賞賛し、あまつさえ著作権法に違反する形で配信で利用しているのを見かけたことがあり、胸が痛んだのは決して忘れられない。

かけがえのない音楽と、自分との間に介在する他者は、本当に大切な関係の人だけであってほしいというのはひねくれたわがままだろうか。

オンライン上で、あるいはサブスクリプションという場で、プライベートという空間が失われてしまった今、そういうことを書いてもしょうがないのだけれど、それでもやはり自分がこの上もなく大切にしているもの、敬愛するものを傷つけられてしまったと感じたのは誰にも揺るがせない事実で、そういう意味でもTwitterからは距離を置きたい。

 

またもやずいぶんと長くなってしまった。

BANANA FISH16・17話を観た。

16話のアッシュが悪夢にうなされてマックスを撃とうとするシーンがアッシュのただならぬ苦しみそのものをよく表わしていて、どんなにコミカルなシーンがあったとしても、彼の苦しみは救いがたくわだかまっているということが表わされていてとても良い。

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17話では彼自身のトラウマを掘り返すようなシーンがあるけれど、彼の武器が自らを傷つけるナイフであることが本当にやりきれないなと思いながら観てしまう。

そうした経験の蓄積が彼の悪夢を生み出し、その悪夢に苛まれつづけるというのが終始一貫していて、アッシュの苦しみと悲しみだけがこの物語の屋台骨を作っているから、そこを丁寧に描くところにとても好感を抱いてしまう。

 

そして17話の英二からアッシュをハグして、アッシュがおずおずと背中に手を回すシーンもとても良かった。

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主人とは「あらあらまあまあ」と茶化しながら観ていたのだけれど、単なるBLのご褒美シーンというよりも、ふたりの人間性と関係性が如実に表れたシーンだったと思う。

英二にとってアッシュがそうであったように、アッシュにとって英二はかけがえのない存在になったはずだけども、こんな自分が愛情を注ぎ、注がれていいのかという戸惑いがあの所作から伝わってくるところが、映像作品ならではだなと感じた。

どんなに言葉で彼を救おうとしても、結局のところアッシュは手負いの獣だから、どこかで拒んでしまう節があるのだと思う。

それをハグという行為によって示すことで、ようやく心を許すことができる。

性愛の醜さ、痛ましさをアッシュは厭というほど味わってきたからこそ生まれた名場面だった。

 

今日はずいぶんと長ったらしい日記を書いてしまった。

今日のお茶は朝昼と夜にいただいた。

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朝昼には凍頂烏龍茶を。

主人が淹れたついでにご相伴にあずかったので、マグカップという形になった。

 

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夜の紅茶はセイロン・ディンブラ。

 

それから部屋に帰ってこの日記を書いてきた。

ずいぶんと長くなってしまったけれど、毎回長くなるのでご容赦願いたい。

考えを整理しないとどうにも眠れない節があるので、今後とも日々更新に励みたい。