朝は10時ごろ起床。目覚めは良かったし、家事もできたのだけれど、人間不信というものは一朝一夕には解決しないらしい。
主人のことはようやく信頼できるのだけれど、そこから一歩踏み出した外の世界の人間を信じられない。
TLを眺めていても嫌気が差すので覗くのをやめて、読書メーターともほどほどの距離で付き合おうと思っている。
元来ネット上の人間を100%信頼すること自体無理なことだし、ブログという場はまだしも、Twitter上で鬱ツイートを繰り返していた過去の自分が本当に信じられない。
その頃は他者からの共感を求めていた節はあったのだけれど、今は少なくとも直接的な形で他者の共感を必要としているわけではない。
能動的なアクセスを必要とするブログなら、あるいは字数を費やして語れるこの場所なら、自らの思いを語ることはできても、SNSで見知らぬ他者からの安易な共感となぐさめを求め、瞬発的な言葉で負の感情を発散させるだけの元気もないし、信頼もない。
『依存症のすべてがわかる本』に載っている図を見てみても、配偶者以外には×がつく。
そもそも毒親育ちで、参っていても実家を頼れないというのが根強い人間不信の一因になっていたし、それに輪をかけて医師のドクハラ発言があったので、この図の「医療従事者」も未だに信じられない。
友人とはさまざまな事情があって、未だに付き合いのある友人のことは信頼しているけれど、あくまでも遠い他者という認識であって、近しさや親しさはさほど感じていない。
こればかりは私自身が共依存に懲りて距離を取っているという問題もあるし、そもそももう30代の大人なのだから、友人との間に距離が大きく生まれていることもしょうがないことなのだと思う。
このブログに書いたことと、読んで心をなぐさめられた本の紹介を併せて、一冊の同人誌を作るつもりでいたのだが、今日は終日傷心気味だったので、やはりまだ傷は癒えていないらしい。
ひとまず今の時点では、この場を離れたところで、自分自身の傷について無理に語ろうとすることはやめておこうと思う。
俳句などを詠めればいいのだが、なかなか心にゆとりがなくて、今日も叶わずじまいだった。
代わりにBANANA FISHの余韻にひたるべく、アメリカ風にマグカップでルピシアのユニオンジャックを淹れて、散らかっている積読本の山を片づけて本を読んだ。
詩歌雑誌カルテット7月号を読んだ。
偶然読書メーターで見かけて即買いしたのだった。
あいにくとまだまだ現代詩には疎いのだが、こうした小冊子が手元に届くと、分厚い本が届くのとはまた違った喜びがある。
長らく積んでいたのを、このたび片づけた積読本の山から発掘して読んだ。
西川の詩と江夏名枝の詩、山下泉の幻想的な短歌が良かった。「ひっそりと水をつかいて昏れる日のはじめから琥珀のなかに木霊」「入り口の秋は鑢を匂わせて不縁の人が舟で出てゆく」等、幻想的な短歌の潮流に連なる歌が並ぶ。巻末の詩集カタログも現代詩を芋づる式にたどるのに使い勝手が良さそうだ。
巻末の詩集カタログからは読みたい本が芋づる式に出てきたので、それらも追って読むことにしたい。
なによりの詩にはぜひとも詩集を買って触れたいと強く思った。
本書に併録されている、この詩集の書評にも惹かれた。
こうして少しずつ現代の詩歌に触れながら、自分の詩も磨いてゆければと思う。
また主人に勧められた桜木紫乃『氷平線』も読みはじめた。
トラウマに抵触するかもしれないと不安だったのだが、なんともダークでモノクロームな世界観が良い。
「雪虫」の日本文学としての完成度には目を見張るものがあった。
救いがたい人間の宿命と悲しみを克明に描きながら、それでいて希望の見出せるラストシーンが短編映画のようで、大いに魅せられた。つづきも読むのが楽しみだ。
今はただ文学だけが私の心のよりどころとなっている。
それから今日は主人の誕生日なので、せっかくだからとバースデーカードを書いた。
まだ主人と交際していた頃に買ったもので、なかなか使えずにいたのを、思い出深さもあって使うことにした。
メッセージにはここのところ元気をもらっているKing GnuのSorrowsの歌詞を引用した。
それから主人が帰宅して、義実家からいただいた霜降り肉ですき焼きをした。
家で誕生日を過ごすのはこれが初めてだったけれど、良い誕生日会になったと思う。
しかし私も主人が買ってきてくれたシードルとノンアルの梅酒をいただいたのだけれど、主人とどんなに楽しい話をしていても、頭の芯が醒めていてどうしようもなかった。
せめて今だけは忘れようと思って楽しい話題を持ち出しても、やはり人間不信とそれに由来する自責の念とが私を責めさいなむ。
表向きは楽しい素振りを見せても、心の中はどうしようもないほど暗澹としていて、それでも雰囲気を壊したくないからひたすら取り繕って過ごした。
昨日、光が見えたと思っても、やはり心の傷はそう簡単には癒えるものではないらしい。
King Gnuの白日の
真っ新に生まれ変わって
人生一から始めようが
へばりついて離れたない
地続きの今を歩いているんだ
という歌詞が痛いほど心に響く。
今は底の底にいるのだろう。
主治医に説明したごく一部の状況ですら、「このような心理状態に陥るのは致し方ないし、専門職のカウンセリングが必要」と云われたレベルのことなので、素人がどうにかできる問題ではないのかもしれない。
それでも主人と二人称にまつわる話や、役割語についての話、たわいのない話をしているうちに、だんだん気分がほぐれてくるのが分かった。
ここのところ自分は幸せになってはいけないのではないかという疑念を抱いていたし、それがこびりついてしまってなかなか頭から離れずにいたけれど、それでも内心の不安を押し殺していると、いくらかでも酔いが回って来た。
ハイになったふりしたって
心模様は土砂降りだよ
という有様だったけれど、主人の幸せそうな顔を見ていると、これでいいのだという想いに至った。
メッセージカードには書いていないが、上に載せたKing GnuのSorrowsの歌詞の冒頭に、
優しい嘘をついてくれよ
現実は残酷だもの
とあるように、こういう嘘に罪はあるまい。
日々何かと負担をかけてしまっているから、せめて今日は主人が楽しい誕生日を過ごせるようにという一心でいた。
誕生日プレゼントのツヴィーゼルのビアグラスと主人が好きなビールのセットは好評をいただいた。
このギフトを注文したあとに、ルピシアの広報誌に瀟洒なビールの詰め合わせギフトが掲載されているのを知ったのだけれど、私にはお酒のことがよくわからないので、無難にエビスで良かったのかもしれない。
またビアグラスはまったく疎いジャンルなのでひたすら下調べをして、打見も美しいこのグラスを選んだ。
主人も見た目がかっこいいと喜んでくれて、心から良かったと思う。
追記
主人が眠ったあと、思い立って人間不信に関する本を読もうと思い、kindleでこちらの本を読んだ。
表紙に少し抵抗感を感じたのだけれど、結果的に読んで良かったと思う。
少なくとも今私が欲していることはだいたい書かれていた。
著者は私自身かなと思うほど重なる部分が多かった。私もまた「ヒーロー」と「イネイブラー」の役目を負い、さらに文章を書くことでその鬱屈を発散させているから。今はまだ人間不信の坩堝から抜け出せずにいるけれど、その要因のひとつとして母親と今はほとんど連絡を絶っていることが挙げられるのだろう。他にも理由は色々とあるけども。いずれにせよ今が一番苦しい時期だと思って乗り切るしかない。文学と文章を書くことだけが私を支えてくれるだろう。
人間不信の根幹には、やはり母への不信が根強く影響しているということが分かったし、しばらくはこうして距離を置いて正解だということも分かった。
医師に相談した友人との人間関係上の悩みと、この母への不信が組み合わさって不信感が募っているのだということが明らかになった。
また母と距離を置くことに伴って非常に苦しい時期を過ごさねばならないことも書かれており、その解決策として自分が夢中になれるものを探すという趣旨のことが記されている。
私にとってはこの日記がその夢中になれるものに他ならないし、今はこのブログと文学だけを頼りに生きていると云っても過言ではない。
こうして日々読んでくださり、また評価してくださる方がいるおかげで何とか日々を乗り切っている。
改めて深く感謝申し上げたい。