今日の日中のことはこちらの記事に書いたので割愛する。
外出したあと、帰宅してふたたび憂鬱の波が押し寄せてきた。
用事のための外出だったけれど、歩いていてだんだん気分が悪くなってきて、帰ってきた頃には疲れ果てていた。
朝にTwitterに身内用の鍵垢を作ってみたものの、やはりリプライやいいねが飛んでくると怖いと感じてしまう。
もちろん旧知の仲だし、完全に善意を持って接してくれているのは分かっているはずなのに、どうしてもインタラクティブな空間は今は無理なようだ。
PTSDの症状として、今、私の頭はその場が安全か、相手が安全かどうかをうまく認識できないらしい。
仕方がないのでTwitterから離れることをふたたび決めて、ここと他のブログを拠点とすることにしたい。
また、夜には知らない年配のおばさんから電話がかかってきた。
アドレス帳にも登録しておらず、「お久しぶりですぅ〜〜!!! ○○さんですかぁ???」とハイテンションな粘りっぽい声で云うのが心底怖くて、誰だか知らないけれど着信拒否にした。
もしかしたら旧知の方なのかもしれないけれど、いずれにしても過去に知り合った間柄で、今でもつづけたいと思っている関係性の人はごくわずかだし、あいにくと連絡を取りたい相手ではない。
他人に侵入を許すことがかなり難しくなっているので、こういうことがあると本当にダメージを受ける。
侵入してきてほしくないと思えば思うほどたやすく侵入されて、そのことが耐えがたい屈辱と苦痛となって襲いかかってくる。あくまでも精神的なものではあるけれど、精神も肉体も同一のものとして存在している以上、負荷がかかってしまうらしい。
しばらく主人以外の人とは誰とも電話で話したくない。
そういう心理的な状況もあって、オンラインイベントの告知が目に飛び込んできたけれど、今は見送らざるを得ない。密な交流は今はとてもできそうにない。
今は療養第一だと思って過ごす他ないのが口惜しい。
同人誌を刷るのはやはり難しいとなると、やはりKDPに重きを置くしかない。
既刊を一応貼っておく。
KDPをメインにするとなると、全年齢向けBANANA FISH感想本は自分用と、欲しいと連絡をくれた友人用の二部だけ刷ることになるかもしれない。
WEB公開は現時点ではまったく考えていない。
その頃までにはいくらか回復することを願うほかない。
他に作りたいと思っているエッセイ本はいずれも全年齢向けでオリジナルなので、KDPで問題はあるまい。
KDPとエッセイの相性はそう悪くないはずなので、それをモチベーションにして励みたい。
ここのところいよいよ味覚もおかしくなっているらしく、朝はお茶漬けの味を認識できなかったし、夜は作った雑炊の味がまったく分からなかった。
精神的なストレスによるものだろうと思うのだが、これ以上食欲が落ちるとさすがによろしくない。
こうした状況が積み重なって、とても気持ちを安定させていられないので、図書館から借りてきた『石田波郷全句集』のうち、かねてから読みたかった「惜命」のみを読んだ。
図書館本。
療養俳句の金字塔と呼ばれる本書を手に取れたことを心からうれしく思う。哀切極まる俳句の数々に深く心を打たれつつ、生活に根ざした俳句を志した俳人の、その卓越した俳句の世界に感じ入った。
よろめきて孤絶の蚊帳をつらんとす
凍蝶や妻を愛さざる如病み臥す
夕虹や三年生き得ば神の寵
梅雨來し妻足を拭へるかなしさよ
雪後來し子の柔髪のかなしさよ
といった病苦の切なさが痛いほどに伝わってくる句もあり、また
不眠者のベッドきしみて枯木星
寒禽を屍の顔の仰ぎゆく
乙女獲し如きかも薔薇を挿して臥す
講堂に春斜陽のみピアノ打つ
蝶の晝病者の讀書顔かくす
といった耽美的な句も多い。
生活に根ざした句風を志した人という認識が先んじていたのだが、その立地を確たるものにしながらも、卓越した美意識を持ちつづけた人だったのだろうと感じた。
できれば手元に置いて愛でたい。
日本の古本屋でかねてから目をつけていた『惜命』を注文した。
届くのが今から待ち遠しい。
ここのところ図書館から借りた句集を買うということが増えている気がする。
思い返せば鷲巣繁男『石胎』や永田耕衣『驢鳴集』を買ったのも図書館が縁となってのことだった。
今は図書館という存在にどれだけ支えられていることか分からない。
20年の時を経て、私は今まさに「もうひとつの家」としての図書館と再会したと云ってもいいのかもしれない。
今後ともさまざまな形で本を借りて利用しながら本との付き合いを深め、図書館という居場所をもっと大切にしたい。