今月のこの日記のアクセスが1000アクセスを超えました。
謹んでお礼を申し上げます。
今日は気圧と月経後症候群の症状と抑うつ状態が出てほぼ一日死んでいた。
死んでいるときはだいたいPrayer Xを延々とリピートして聴いている。
溢れ出した涙のように
一時の煌めく命ならば
出会いと別れを
繰り返す日々の中で
一体全体何を信じればいい?
そうだよな、誰も信じられるわけないよなと思う。この曲だけは私に同調してくれる。
読書メーター経由のネトスト犯の最後のひとりがブログの読者から去った。
この間とても耐えがたい想いをした。ブログを一時的に非公開にしたのもそのためだし、それでも屈したくなくてふたたび公開しながら執筆をつづけてきた。
とはいえ今後とも似たようなことがないとも云えないし、読者から離れてもブクマして閲覧しているかもしれない。ネットに文章を公開している以上、どうしてもそういうことはつきまとう。
私がPTSDの再燃で苦しんでいる事実はどうしようもなく贖いがたい。
昨夜も寝る間際にさまざまなことを思い出してなかなか寝つけなかった。
ネトスト被害がなければTwitterで活動をつづけられたかもしれないし、失ったものは決して小さくない。
それでも何とか生き延びることだけを考えて、この一ヶ月を過ごしてきた。
振り返ってみれば十年ぶりに死を覚悟するほど長く苦しい一ヶ月だった。
PTSDの再燃はまだつづきそうだし、しばらくは眠るのも苦しい日々がつづくだろう。
それでも何とか生きねばならない。
午前中はまともに動けず、昼ごろに図書館エッセイの書き下ろし原稿を進めた。
実は昨日やはりカクヨムで公開した方が良いのではないかという想いに駆られて、はじめの三本だけ公開したのだが、Twitterを退会したこともあってなかなかPVや評価が思うように伸びず、カクヨム内であれこれと模索する気力がなくて、結局KDPという出発点に立ち返ることにした。
約3000字ほど書いて、全体として2万字程度になればと思っている。
加筆分に関しては詩歌にまつわることがメインとなっているが、詩歌を借りるに至るまでの経緯もできるだけ掘り下げて書いておきたい。
まだまだネタは尽きなさそうだし、現在のところ1.6万字まで来ているので、校正をして編集を加えるにしても今年中には頒布に至れそうだ。
KDPを作るノウハウはすでに持っているので、製本にさほど心理的負担がかからないのもありがたい。
既刊はこちらの二冊で、いずれも散文詩集になっている。
kindle unlimited会員であれば無料でご覧いただけるようになっている。
そのあとブログ記事を何本か書いて、朝からの体調不良と気力の消耗が祟ってしばらく横になって休んだ。
それからのんある気分のカシオレ味とともに、主人が作ってくれたキムチ鍋をいただいた。
ゆるキャン△仕様の餃子が入ったキムチ鍋で大変美味しかった。
それからしばらくさまざまな話をしてそれぞれの部屋に帰った。
その途端に憂鬱の波が押し寄せてきた。
主人はPTSDのことをあまり理解していないようで、相手も悪気はなかったのだと云う。
たしかに相手はコミュニケーションの方法が分からないがゆえに女性に急接近してしまう、いわゆる弱者男性と云われる人たちなのかもしれないし、他者とうまく距離を保って関わることができない人たちなのかもしれない。
決して悪気はなかったのかもしれない。私が一時的に受け入れる姿勢を見せたことが良くなかったのかもしれない。
だが見知らぬ人間の善意ほど怖いものはないということを今回まざまざと思い知った。
著しい人間不信に陥ったのも、人の悪意が原因となってのことではない。むしろ善意が怖いのだ。
ネトストがきっかけでPTSDが再燃したことは間違いないし、おじさんという字面を見るだけであのときの恐怖がよみがえる。
こればかりは人に云っても分からないのかもしれない。
自分の精神の内側に深く侵入されて、その間なすすべもなく無力感に苛まれ、恐怖するしかない。かつて性的なトラウマ体験を味わうことになったときの恐怖に近しいものを感じてしまう。
以前、リアルでも文学好きを自称する年配のおじいさんにナンパされたことがあった。
女友達と一緒に読書会をしたあと、ひとりになったところに声をかけられたのだった。
どうにもきみはそういう隙のある対象として見られやすいのかもしれないと主人は云う。
事の発端となった読書メーターでも、ネトスト犯が声をかけてきたのは共通のフォロワーの女性ではなく私だった。
同じ読書好きでも、たとえば知人の女性のように人を寄せつけない雰囲気を醸し出していたり、パリピのギャルなどだったらまず声はかけられないのだろう。
本当に自分が情けないし、人をそうして誘惑しているのではないかという強い自己嫌悪の念を抱かずにはいられない。
支援団体に相談した時にあなたは何も悪くない、あなたは穢れてはいないと云われたのだが、どうしてもそう思えないし、そう思える環境に私はいない。
主人に話したことでふたたびこのモードに入ってしまった。
未だにSNSには戻れない。
カクヨムならば平気かもしれないと思ったけれど、他人の投稿が溢れる環境と評価の仕組みがSNSを彷彿とさせて恐怖感を覚えてしまった。
図書館エッセイのカクヨムでの公開を見送った背景にはこのような事情もある。
朝の時点ではうまく言語化できていなかったし、意識の表層にまで顕われていなかったけれど、結局のところインタラクティブな空間のすべてに云いようのない恐怖を感じてしまっているのだから、もう仕方がない。
KDPならばSNSとはまた特徴も異なるし、大丈夫だと思いたいが、回避行動が強く顕われているので、PTSDとの戦いはまだまだつづきそうだ。