昨日は2時に寝て12時に起きた。
やはり就寝時間は遅いけれど、徹夜するよりはいくらかマシだ。
おかげで精神状態もいくらか安定していたようで、病院に電話をかけずに済んだ。
いくつか家事もこなせたし、ひとまず連休が終わってほっとしているというのも大きい。
このまま調子が上向いてくれればいいのだけれど、あいにくとそういうわけにもいかないだろう。
疲弊感が強いのは変わらないし、気力もまるでない。
無気力なのは今にはじまったことではないので、気力は当てにしないで生きているのだけれど、そうすると疲労の限界まで活動してしまって、それきり動けなくなる。
そういうことを繰り返しているのかもしれない。
一日を振り返ってみると、かなり省エネな一日だった。
ブログ記事もあまり書いていないし、本は読めたけれど、他にこれといってできたことがない。大半の時間を無為に過ごしていたのだろうか。
不眠による徹夜つづきで、休日は両日とも外出して消耗しきっている。
気晴らしをしたところで疲れきってしまうし、今はできるだけ楽にできることを心がけたい。
そういうわけで記事を一本仕込んだ。
本は読み止しだった諸富祥彦『孤独の達人』を読んだ。
正直なところ中盤以降はさして面白いところがなくて、密度としては『孤独であるためのレッスン』の方が高い。
結局のところ著者が云いたいのはあくまでも孤独の発想の転換が必要であるという点と、そのために他者への過剰な理解を求めない、成熟した精神が必要だという点の二点に絞られる。
前者はともかく、後者がなかなかできない人間にとっては、少々片手落ちかなという感は否めなかった。
自分の人生を親と子どもという、過去の人間関係に縛りつけすぎてしまうという点で、アダルトチルドレンを自称することの危険性を説いていたのはもっともだけども、かといって結婚をしてそれで救われる人ばかりではあるまい。
私自身は結婚をして良かったと思っているし、主人には日々感謝しているけれど、それでも飢餓のような孤独感が解消されないのは、結局のところ養育者であるべき母ではなく、母が私を一時的に預けていた祖母に育てられた影響がかなり大きいのだろうと思っている。
その後祖母から引き離され、私は母の元で過ごす時間が増えたけれど、幼少期は両親に心を開けない子どもだったのを未だに覚えている。
私は祖母のことを育ての親だと思っているし、年々毒親としての毒の濃度が濃縮されていく母のことはとても愛せそうにない。
過去の人間関係に縛られすぎて、今という時間を生きられないというのが問題だという論旨はわかるけれど、母との関係も未だにつづいている。
できるだけ連絡を避けてはいるものの、絶縁するだけのエネルギーは今の私にはない。
反抗期に自殺未遂まで追いこまれたこともあって、今さら逃れようとしても逃れられない以上、できるだけこちらが折れてやるしかない。あくまでも平静を保って。
30代になって、だんだんそういうこともできるようになってきた。
仕事の愚痴も、親戚との確執の愚痴も、浪費自慢も、とにかくひたすら聞き流す。
母の日のギフトに文句をつけられたことも心に留めておきすぎてはどうしようもない。
いっそ贈らなければ良かったとは思うけども、そういう人間なのだから仕方がないと割り切るしかない。
どこかでそういう折り合いをつけない限り、毒親の問題はどこまでもアダルトチルドレンを蝕みつづけることになる。
やはり家庭を持ったということがかなり大きいのだろう。そういう点でも主人が傍にいてくれることには感謝したい。
とはいえそれで丸々すべてが解決するわけではないということは強調しておきたい。
私自身も他者への理解を求めすぎず、もっと精神的に成熟していかなければならないことはこの本を読んで良く分かったし、それは収穫だったと思っている。
そういう意味で先日主人が話していたレヴィナスの他者論が気になっている。
wikiを読んだ限りでは、レヴィナスの他者論は彼自身のホロコーストの体験に立脚しており、そうした絶望的な必然性から生まれた思想であることも強く興味を惹かれる。
私の頭でどれほど理解ができるか怪しいけれども、興味の赴くままに本を読むことは大事なのだと改めて感じたし、できれば手に取って読みたい。
ちなみにこうして気の赴くままに本を読むことは、外山滋比古『乱読のセレンディピティ』にも通じるものがあるし、こちらも再読してもいいのかもしれない。
夜、主人とともにDr.STONEを6話まで観た。
破天荒に思われたストーリーもどんどん加速し、面白くなってきた。
キャラクターの魅力は今ひとつ伝わってこないのだけれど、ストーリーでぐいぐい見せるタイプの作品だと感じる。
正体不明の新キャラも出たことだし、つづきが今から愉しみだ。
今日のお茶は三度。いずれも紅茶はルピシアのアフタヌーンティーだった。
なかなか家の外でお茶をする機会に恵まれない世の中なので、アフタヌーンティーにも行けないけれど、こうして家でのお茶の時間を楽しめるのは何よりの喜びだ。
以前付き合いのあったご婦人のお宅でのお茶の時間がとても優雅で、茶器もこだわっておられたのを未だに覚えている。
アンティーク家具やアンティーク食器が並ぶお宅は壮観で、なかなかあんな風には暮らせないけれど、せめて今持っている食器も少しずつアップデートさせていきたい。
主人も器が好きなだけあって、時々器の話をするのだけれど、より良い器選びの目を培いたいところだ。