眠りたくはなかったのだが、具合が悪くて到底起きている元気がなく、23時に寝て郵便物の受け取りで起こされて9時ごろ起床。
昨日からのかゆみは幾分緩和されたものの、アレルギー反応で口内が荒れるし、おなかの調子も優れないし、朝から鬱々として屍状態だった。
毎日体調が悪い。メンタルだけならともかく、フィジカルもあちこちでトラブルを起こす。
この先良くなる見込みもないし、主人の云うように「明日はきっといい一日になる」なんてまったく思えないまま毎晩眠りに就いている。
果てしのない病気との闘いが延々とつづいて、いつか心が折れる日が来るかもしれない。
愚にもつかないことばかり頭をもたげてしょうがない。
ここに書こうかと思ったけれど、私の創作物を評価してくださっている方もおいでだし、KDPで出している散文詩集もお買い上げいただいている。
図書館エッセイ本も完成させなければならないし、短歌も50首揃えなければならない。
悲観的な気分に陥って、それらの目標を見失い、自分のせめてもの希望を黒く塗りつぶしてしまっては元も子もない。
不幸に入り浸っている間はいくらか心がなぐさめられるのかもしれないが、書いていいこととそうでないことの区別ぐらいつけねばならないし、せめて心の中に留めておくことにする。
どんな失意の中にあっても、それでもなお生き延びるために希望を掲げつづけなくてはならない。
たとえ不調の波に攫われたとしても、それでも石を積みつづけなければならない。
それでも希死念慮が頭から離れず、やむなく二時間ほど横になり、そのうち一時間は眠った。
眠り際に短歌を四首詠んだ。
消耗していることもあってか精度がよろしくない。
佳作をいただいた短歌も横になって憔悴している時に詠んだ記憶があるけれど、不調を当てにして詠むのも限度というものがある。
なんとか立て直したいところだが、きっとどのみち明日も体調が優れないだろう。
そこからはようやく気分も整ってきて、家事をして記事を仕込んだ。
やはり医師の云うように多少無理をしてでも家事をした方がいいことはたしからしい。
長崎銘菓「おたくさ」とルピシアのサクラ&ベリーでお茶をした。
ひとりで紅茶をいただく時にはミルクティーと決めていて、それが自分の中でひとりの時間と主人と過ごす時間の線引きになっているのかもしれないと思う。
もちろん主人と過ごす時間も好きだけども、何かと病がちで落ちこんでしまうひとりの時間にもいくらかの安らぎが欲しい。
そのあと主人を待つ間にニュースを何本か観た。
NHKのローカルニュースのほのぼのとした雰囲気が好きで、いくらかでも元気があったり余裕のある時には観るようにしている。
塩船観音寺のつつじが美しくて心をなぐさめられたり、アルパカがかわいらしくて癒された。
主人が帰宅して、夕食をいただきながらDr.STONEのつづきを観た。
某メンタリストを揶揄したようなあさぎりゲンというキャラクターが登場して、一時期某メンタリストの動画などを観ていたのでひやひやした。
今ごろ彼がどうしているのかは知らないけれども。
10話がゲンのダンディズムの炸裂で締めくくられたことに私はなかなか理解が及ばなくて、主人に「男心がわからないねぇ」と笑われてしまった。
なかなか異性の心のありようというものは推し量りがたいものがある。
9話10話のクライマックスシーンは、やはり科学の灯火が灯るところだろう。
感動的で印象深いシーンとして仕上げられていて、改めてこの作品のプロットの骨太さに感嘆する想いだった。
今日は参っていたこともあって本を読めず、音楽もろくに聴けていない。
昨夜から松野志保『われらの狩りの掟』を読みはじめた。
私自身は短歌において口語という文体をなかなかものにできないと感じていたのだけれど、口語でこれほどまで表現を高められるのかと感嘆した。
同時に口語で短歌を詠むことに否定的だった気持ちをほぐしてもらった気がする。
やはりもう少し時間をかけて多くの歌集をじっくり読んで、少しでも自分の短歌に反映させていかねばならないと思う。
同時に詩を書いたり、俳句を詠む機会も設けたいし、エッセイもまだまだ書きたい。
たとえプロになれなかったとしても、それでもものを書いたり詠んだりすることはやめられそうにない。
そうして足掻いているうちに見出せる光もあるのかもしれない。
終わりのない旅路を進め
夜が明けるまで
奥歯を食いしばって
とKing Gnuが歌うように、せいぜい自分の足で立って進むしかない。
何者にもなれない自分を否定的に捉えたくなる日々がつづいているが、さまざまな病に見舞われる毎日を、懸命に生きていることだけでもせめて評価すべきなのかもしれない。
それから明日に受診日を控えてふたたび絶望の淵に追い落とされた。
医師から散々ドクハラ発言を受けてきた身にとって、次は何を云われるのだろうと不安になってしまう。
うつで滅入っていても「声は元気そうだ」と云われるのが関の山で、体調の良し悪しを勝手に決めつけないでほしい。
念のため伝えることは紙に書き出してみたけれど、そのうちどれぐらいを伝えられるのか、今は分からない。
PTSDが原因で人間不信になって、真っ先に信じられなくなったのが医師だった。
つらい時には連絡してねと云われているけれど、予約状況が混み合っていることも分かっているし、私の電話で迷惑をかけるのも申し訳ないという想いと、きっと分かってもらえないという不信感とでなかなか電話できない。
医師を信じられたらいいのに、何度も傷つく言葉をかけられてきて、到底信じられずにいる。
転院できたらいいのだけれど、私の持病は複雑で、中には難治性のものもあって、薬の調整はどうしても難しい。またこのご時世、初診の予約はなかなか取れないし、他にも諸事情もあって動きづらい。結局今お世話になっている病院にいるしかない。
そう考えているとますます気分が落ちこんでしまった。
そのあと主人がPCから出てきた昔の写真を見返していたと云って、「昔より綺麗になったね」と云う。
とんでもない、うつの悪化で毎日洗顔をするのがやっとで、化粧もできなければ毎日着替えることすらままならない。
30代になって確実に老けたし、とても綺麗だとは思えない。
美容のモチベーションもだだ下がりで、しばらくスキンケア商品以外のコスメもろくに買っていない。昨年までとは大違いだ。
そういうことを云い募ると、「明日は着替えてお化粧をして出かけよう」と云われた。
明日出かける元気などどこにもないのだけれど、こういう時には嫌々でも提案に乗ることにしているので、出かけることになりそうだ。
少々気が重いけれど、主人は乗り気だし、できれば応じたい。