昨夜からふたたびうつに転じて希死念慮が頭から離れない。
何も手につかないまま夕方になって、途方に暮れている。
主人がフォトウエディングをしなきゃ、結婚式場にも電話をしなきゃというのを遠い世界の出来事のように聞いていた。
このままではいけないと思うのだけれど、一日一日を生き延びるのに必死な人間に晴れの日なんて来ない。メシア待望論のように縁遠い。
それでも新婦がこんな調子ではよろしくないのだろうと思って、フォトウエディングについて調べてみると、椿山荘でもフォトウエディングをやっていると知った。
口コミも良いし、何より椿山荘には親友や家族とアフタヌーンティーに何度も出かけた思い出の場所でもある。推しの歌仙兼定とコラボした場所でもある。
それでもフォトウエディングをするならここがいい、という一言がうまく云えなかった。
うつに苛まれているとその資格が自分にあるのかまったくわからなくなる。幸せになりたくない。その資格もない。
従姉妹の結婚式に触れてからどうにも鬱々としてしょうがない。私は既婚だし、結婚式にそこまであこがれもないので、単に羨ましいという話でもないので余計にこじれている。
なんとも言語化しがたい絶望感を味わっている。
実母はすっかり乗り気だから、椿山荘でやりたいと云えばすぐに食いつくのも目に見えている。お金は惜しんじゃダメよ、一生に一度のことなんだから、と。その圧もつらい。
うつ病の人で結婚式を挙げざるを得ない人はどうしているのだろう。
もはや自分自身のためではなく、親のため、世間体のために挙げるという様相を呈してきている。挙げない自由だってあるのかもしれないけれど、子供を産まないことは許されても、結婚式を挙げない自由は私にはない。
葬式躁病という言葉があるように、結婚式もうつ病を悪化させる要素が多分にあるのだろう。実際クリスマスですらストレス要因となりうるとものの本で読んだことがある。結婚式ならば尚更だ。
こうして書いてもどれほど理解してもらえるのかわからないけれど。
それから短歌について主人と話した。
書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズから歌集を出すには、審査に通らなければならないというのと、何より半ば自費出版のような形で、多額の費用がかかるということなどを話した。
KDPで作った方がやはりいいのかもしれない。
むろん歌集をいずれは作りたいという気持ちもあるけれど、調べてみると自費出版か、半ば出版社の力を借りて出版しながらも費用がかかるという場合がほとんどとのことなので、ひとまずKDPでの出版を目指したい。
そのためにもまずは300首を揃えて、そこから絞って50首を選び、投稿をしたいと思っている。
既刊の散文詩集もよろしくお願いします。
何もできないまま途方に暮れて希死念慮が頭から離れず、眠気も強いので一時間ほど眠った。
かつてネット上の知り合いに「死にたくなったら眠ると良い」と教わったことがあって、それはどんな言葉よりも私を支えてくれている。眠っている間夢は見なかった。ここのところ悪夢つづきで眠りも浅い。
隣室から主人が和本でオンライン漢文読書会をしている様子が伝わってくる。
それも遠い世界の出来事のように聞いていた。
昼間にIKEAで買ったLEDライトに電池を入れたので、さっそく部屋に灯してみた。
ランプの色がゆらゆらと揺らめいて、だんだん暗くなってくると余計に映える。
本当はよく本などで見るエンキンドルのものが欲しかったのだけれど、昨年IKEAに行ったときにどうしても欲しくなってしまって買ったのだった。
結果的にこちらを選んでもそう悪くないのかもしれないと思う。炎の色がゆらゆらとゆらめくさまが美しい。
この写真とともに、おすすめの音楽をおすすめしてくださった学生時代の先輩にお礼のメッセージをLINEで送った。
人と交わっているという実感を持てないと、今は到底やっていけそうにない。
それから短歌を詠んだ。
ここ数日は鬱々としているため、詠む歌も暗いのを通り越してどこかゴシック風味になりつつある。
詳細はこちらのブログに書いたので重複は避ける。
それからまどマギのサントラを聴きながら佐藤弓生『モーヴ色のあめふる』を読んだ。
宮沢賢治や萩原朔太郎、漱石など、なじみ深い近代文学へのオマージュが随所に散りばめられた歌集。幻想的でたをやめぶりな歌風が魅力的で、葛原妙子の系譜に連なるものだという想いを新たにした。
巻末のあとがきの「幻想は“ほんとうのこと”の種なしには生まれません。「ただロマンチシズムとリアリズムとは、主観の発想に関するところの、表現の様式がちがふのである」と萩原朔太郎は述べています。表象はどうであれ、詩歌は心の真実のためにあると考えます”というくだりに、この本に出会えて心から良かったと強く感じた。私も力及ばずながら、そうして詩歌を作っているからだ。図書館本として借りたが、ぜひ手元に欲しい。
短歌を読んでみて、あらためて短歌の魅力に気づくとともに、もっと励まなくてはという想いを新たにした。
また私が学生時代から慣れ親しんできた近代文学も、このような形で短歌に落としこめるのかという発見もあった。得難い体験だったと感じる。
さらにさまざまな歌集を読み込んで自分の糧としていきたい。
アッシュ・リンクスから変えてしまうことにためらいを感じていたのだけれど、今は短歌に支えられて生きているので、待ち受けを歌仙兼定に変えた。
額装した文京区コラボのクリアファイルはやはりこれだけで楽しみたいので、また別の公式絵にした。
少しでもあやかりたい。
日々生きていくのでやっとで、心が折れそうになるけれど、それでもなんとか前を向いていきたい。
たとえ拙くても短歌を詠みつづけたいし、ひとまず賞への投稿を終えたら、ネット上でもいくらかでも読めるようにしたいと考えている。
しかしそれでもまた別の賞への投稿を考えるかもしれないし、あるいは結社に入りたいという気持ちが強まったらそちらで発表することになるかもしれないけれど、いずれにせよ自分の力で門を叩きつづけたい。