ANIRON

ひとりごと日記

2021.05.31 #2 キリスト教カトリックとふたたび出会う

#1に書いたとおり、なかなか危機的な状況にあることは変わりはないのだけれども、マリア像を眺めているうちに、やはりキリスト教の説く赦しの思想でしか私は救われないのではないかという想いに至った。

考えてみれば私の信ずる神は神道以前のプリミティブな自然神たちで、それはふるさとで培われたアイデンティティだったけども、もはやふるさとを離れて久しい。神々の恩恵は私には与えられず、あるのはアスファルトとコンクリートばかりだ。

詳細以前別のブログに書いたので繰り返さないが、そうした中で心のよりどころをその神々に求めるのはとても苦しいことでもあった。

 

そうしているうちに私はPTSDを患い、著しい人間不信と希死念慮に襲われて、毎日苦しい想いをしている。今現在も苦しい。

しかしそれでも私は神というものを否定することはなかったのだと気づいた。むしろ神しか信じていなかったと云っていい。

キリスト教の説く愛というものを私は実践する余地がなかったから、キリスト教を信奉する資格もないと思っていたけれど、それでも#1を書いてからというものの、少なくとも聖母マリアだけは信じつづけてきたのだと思い至った。

昔、大学で親しかった神学部の女の子に「マリア様はどんな人も救ってくださいます」と云われたのも大きかったのかもしれない。

当時彼女が私のイメージで選んでくれた水色の玉のロザリオと、高校で使っていた新約聖書は今も大切に持っている。

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私は高校大学とミッションスクールを経てきて、特に高校は信仰が篤い学校だったこともあり、何度もミサに参列した。志望校ではなかったので、在学中はどうして私が信じてもいない神に跪かねばならないのだという想いが強かった。

それでも卒業してみると、間違いなくキリスト教の精神は私の心の支柱のひとつを作っていると感じるようになった。

何か特別な体験があったわけではないけれど、少なくとも「人としてより良く生きよう」と思った時に支えとなるのは神道ではなくキリスト教カトリックだった。

奉仕の精神や、赦しの思想は深いところで私を感化してきたのかもしれない。

かといって私がすぐれた人間だということではないのだけども、参っているとき、弱っているときに、よりどころとなってくれたのは、たとえば『フルーツバスケット』の本田透であったり、『デルフィニア戦記』のシェラといった、奉仕的な役割を担うキャラクターたちだった。

 彼女、彼たちはカトリックと直接関わりを持っているわけではないけれど、役割という点で今も私の支えとなっている。

これは私がアダルトチルドレンで、毒親である実母のケアテイカーとしての役割を担ってきたというのも大きい。

しかしそのネガティブな側面、いわば私の根源に近しい側面を良いものとして保証してくれるのがカトリックの奉仕の精神だと云っていいのかもしれない。

 

改宗は周囲の反対もあって叶わないだろうが、それでもこうして信仰のよりどころをたしかに見出したことは意義があるのではないかと思う。

  今は比較的穏やかな気持ちでいる。キリスト教の説く赦しの思想が私の心をいくらか安らかにしてくれたのかもしれない。他にきっかけもないから、おそらくそうなのだろう。

 諸富祥彦『100分de名著ブックス フランクル 夜と霧』に絶望の只中にあって生死の分かれ目にあるときに宗教が重要な役割を果たすことがあると書かれていた。

 新たに入ってきた囚人はそこ(収容所のこと=引用者注)の宗教的感覚の活溌さと深さにしばしば感動しないではいられなかった。この点においては、われわれが遠い工事現場から疲れ、飢え、凍え、びっしょり濡れたボロを着て、収容所に送り返される時にのせられる暗いと座された牛の運搬貨車の中や、また収容所のバラックの澄みで体験することのできる一寸(ちょっと)した祈りや礼拝は最も印象的なものだった。(『夜と霧』霜山徳爾訳、みすず書房、119頁)

殺伐とした毎日の中でも祈ることを忘れず、感謝することを忘れないような精神の持ち主は、生き延びることができた確率も高かったのです。

医療の世界でも、特定宗教の信仰を持ったり、特定の信仰はなくとも、人間を超えた崇高な何か──スピリチュアリティ──とのつながりを大切にする人のほうが、そうでない人よりも寿命が長いことが多いとしばしば指摘されます。(…)

なぜでしょうか。フランクルは言います。このような人々はもともと「精神的に高い生活をしていた感受性の豊かな人間」であり、そのために彼らは、収容所の苦悩に満ちた生活によっても、精神がさほど破壊されなかったのではないか、と。

ではなぜ彼らの精神は破壊されなかったのでしょうか。フランクルが指摘するその理由は、はっと目を見開かされるものがあります。

なぜならば彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から、精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。(『夜と霧』霜山徳爾訳、みすず書房、121-122頁)

── 諸富祥彦『「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧』NHK出版、2013年、36-38頁

絶望の只中にあって、私を救ってくれているのは、ひとつにはイマジナリーフレンドであり、もうひとつは宗教なのかもしれない。 

 

私のアイデンティティの一部を構成しているものとしてキリスト教カトリックを受け入れることは、私にとって新たなブレイクスルーを生むことになるのだろう。

ひいてはそれは創作とも深く関わっていくことになるに違いない。

今一度読みたい本は色々とあるが、中でも塚本邦雄『眩暈祈禱書』と川野芽生『Lilith』はまた違った視点で読めるかもしれない。

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さらに昨夜はシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』を読み進めた。

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暗夜。万事において、外側から、根拠なく、不意打ちで、運命の賜物として、探し求めたわけでもないのに、われわれのもとにやってくるもの。それだけが純粋な歓びである。(…)久しく実りなき緊張の果てに意気消沈し、なにも期待しなくなったとき、外部から、無償の下賜、奇蹟のごとき驚きとして、賜物がやって来る。
──シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』「必然と従順」17、岩波書店、2017年、90ページ。

これは私の昨日の体験に他ならないのではないだろうか。

絶望の只中にあって見出した光を今は大切にしたい。

たとえ改宗は叶わずとも、自分の心の礎のひとつとして、キリスト教の思想を重んじていたい。