ANIRON

ひとりごと日記

2021.06.03 #1 礼の実践

詳細は書かないでおくが、昨日とあることでとてもつらい想いをして朝を迎えた。

月経周期と低気圧が重なり、おまけに昨夜の出来事もぶつかってきて、いかんともしがたい抑うつに苛まれた。

絶対的に信じられる人なんてどこにもいないのだ、と思ってしまう。

どんなことがあっても裏切らないのは神だけで、だから神を信じているけれど、人間のことはとても今は愛せそうにない。

キリスト教の思想は神が私を愛するように、私も隣人を愛するということなのだという理解をしている。そう考えるといかにも私の考えはあまりにも至らない。

どうしても不信の渦に呑み込まれそうになる。

ヴェイユはこの不信を弾劾するのだろう。まだ読み進めている途中だけども、彼女の言葉はあまりに厳しい。その実践はなかなか常人にはなしがたい。

 

それでも感謝の気持ちを伝えようと、とある人には感謝の言葉を告げ、またTwitterでやりとりを再開した友人にも謝意を伝えた。

つらい状況にあってもなお感謝の気持ちを伝えるということは、人間に残された最後の尊厳なのではないかとすら思う。私は毒親にも進んで謝意を伝えている。母によって自殺未遂に追いこまれた経験はあるにせよ。

そうして無私というにはあまりに及ばないけれども、まずは感謝を、という姿勢で臨むのはやはり最低限人と接する上での礼儀なのだろうと思う。

礼儀は私を少なからず守ってきた。発達障害で人と接することが苦手で、まだまだ古い価値観に支配された田舎で育った私にとって、祖母や母から教わった礼儀作法は未だに役に立っている。

そうした視点を持つに至ったのもひとえにこの本のおかげだと思っている。 

 この本は主人が教えてくれて貸してもらって読んだのだが、儒教の説く「礼」というもののあり方を客観的に掴むのに大いに役立ってくれた。

kindleでセール中なので気になる方はぜひチェックしてほしい。

 

こういう内容のことを書くつもりはなかったのだけれど、絶望の只中にあってなお大切なものはひとつには希望で、もうひとつはキリスト教の説く愛には及ばずとも、人間にとっての最後の尊厳としての礼儀であったというのは、私にとっても少々意外だ。

 コーマック・マッカーシーザ・ロード』の終末世界において主人公の父子が最後で人間としての尊厳を失わなかったのは、ひとつにはこの礼の実践があったらなのではないかと思う。

 本書で説かれる「火を運ぶ」という言葉は、キリスト教の説く愛のことを指すのだろうけれど、その一部分は礼という言葉によっても補完しうる。

私の礼儀作法は優れているとは云いがたいかもしれないけれど、それでも結局のところ礼儀というものがもつ人間関係をより良好に保つための仮定は、たとえ素っ裸になって何ひとつもたずに暗闇の中で極寒の大地に立たされたような心理状況であったとしても有効に機能するのだろうと思う。

主人に「どんなに病んでもひねくれないところはすごいよね」と評価してもらったけれど、それはひとえに礼の実践を進んで行ってきたからとも云えるのかもしれない。

そう考えると私もまた儒教的な価値観とは無縁なところで生きているわけではないのだろうなと思う。

儒教についてはそこまで詳しい知識を持っているわけではないので、主人から孔子のことなどを聞いて学んだ範囲のことしか云えないが、自分自身でも学んでみる価値は十分にあるのだろう。

何事も先達はあらまほしきことなりと云うし、主人にいろいろとおすすめの本を尋ねてみたい。 

 

私が礼といって思い出すのは、なんといっても南総里見八犬伝の「礼」の犬士、犬村大角なのだけども、幼少期に親しんだ児童書『南総里見八犬伝』や碧也ぴんく八犬伝』をなつかしく思い出す。

児童書の『南総里見八犬伝』は山本タカトの挿絵が美しく、漫画『八犬伝』はきちんと検証を重ねた成果として漫画になっているので、安心して読めた。

またいずれ手に取って読めればいいなと思っている。