朝から絶不調な一日だった。めまいはひどいし、食欲もなく、気分もすぐれない。
低気圧と月経困難症の症状に見舞われていて、そこにうつが重なってまともに思考がはたらかない。注意散漫、集中力も欠如していて、明らかに体調不良でADHD的に弱い部分が出てしまっている。
特に『スマホ脳』などの本に書かれていたように、スマホやiPadの通知がかなり注意を引くらしく、通知がくるたびに気を取られるので、極力通知を切りたい。
場合によっては再開したTwitterのアプリをiPadとスマホからアンストしてもいいかもしれない。
それは『デジタル・ミニマリスト』に書かれていた手法で、とにかくアプリを削除して、ブラウザからのみ閲覧・投稿をすべしというものだ。
とはいえアプリからの投稿はやはり便利なものではあるので、状況によってうまく使い分けたい。
それでも何本か記事を仕込んで家事をした。
ここのところまともに家事ができていなかったので、ひとまずいくつか片づけられて良かったと思う。
また併せてはてなブログで気になる創作アカウントをいくつか読者登録させていたいだいた。
こうした時にタグというのは便利だなと改めて思う。
できれば他のタグ検索も活用して、できるだけリソースをブログに割いたままにしておきたい。
どうしても私にとってはブログという場所が欠かせないし、Twitterよりも大事な場所だと思っている。
それだけの想いをここには綴ってきたつもりだし、この日記がなければ私はこの三ヶ月を生き延びることはできなかった。
この場には本当に感謝してもしきれないし、読者の皆様のおかげで今の私があると思っている。改めて御礼申し上げます。
ここのところさまざまな出来事が重なっていたこともあって、どうしようもなく弱っている。
しかしどうやらそうした日の方がかえって詩歌を作りやすいようで、今日は8首を詠み、久しぶりに散文詩を書いた。
死にたいという言葉を極力使わないために私は詩歌を作っているのかもしれない。
そう考えると希死念慮はある意味創作の源でもあるのだなと思う。
抱かないに越したことはないけれど、おそらくこの先もずっと付き合っていかねばならない感情だからなんとか作品として昇華したい。
今は小説を書く余力がないので、自分が作れるものを作って、そうしてなんとか生き存えたい。
今だから書けるものもあるのだろうし、今だから人に届けたい言葉もあるのだろう。
その一端をこの場で書き綴っているつもりだし、言葉をさまざまな形に変えて詩歌を作っている。
たとえ今は小説を書けないのだとしても、何かしらの形で言葉や表現というものと関わりを持っていたい。
まだまだ勉強もしていかねばならない。
今はスローペースで『現代短歌大系』7巻と、シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』を読みつつ、浮気をして『&premium あの人の読書案内。』を読んだり、『発達系女子とモラハラ男』を読んでいる。
併読をしているとなかなか落ち着かないので、ひとまずどれか一冊に絞って重点的に読みたいところだ。
『発達系女子とモラハラ男』は先日の一件もあるので、真っ先に読み終えたい。
こうして乱読をしていて果たして良いものなのかと自問する日々を送っているけれど、先日買った穂村弘『きっとあの人は眠っているんだよ 穂村弘の読書案内』の目次を見ると、多種多様な本を読んでいる歌人の姿があった。
詩歌にも触れながら、さまざまな本を読んで、その体験をブログに還元させていくことは有意義なのだろうし、今後とも乱読に励みたい。
ちなみに外山滋比古『乱読のセレンディピティ』も再読したいと思っていたのだった。
またふらんす堂から出版される藤原龍一郎『赤尾兜子の百句』を注文した。
藤原龍一郎こと藤原月彦は俳句を詠む上でもっとも影響を受けた俳人でもあるし、赤尾兜子の名は、鷲巣繁男句集『石胎』にも出てきてかねてより気になっていたのだった。
俳句からは今は少し離れているけれど、私にとっては大切な表現手段のひとつでもある。
俳句にせよ短歌にせよ、学ぶべきものは多いから、少しずつでも日々読んでいきたい。