そうしてふたたび限界突破をして薬を飲んで眠った。
いくらか楽になったものの、結局今日は6時半に眠って13時に起きて、17〜18時まで眠ったので睡眠時間が著しく乱れてしまっている。
もうどうにもならない。起きていたところで無益だし、ならば眠って少しでも頭の苦しさを楽にした方が良い。
夜更かしをした方が翌日楽になるかと思ったのだが、そういうわけにもいかないらしい。とはいえ眠る元気すら枯渇している状況だったので致し方がない。
TwitterでBANANA FISHの舞台初日の写真が見えたけども、それすら食指が動かなかった。ネタバレを防ぐためにはちょうど良かったのだけれど。
そういうわけでほとんど何もできないまま夕方になってしまった。
うつと闘うということはこういうことなのだとまざまざと思い知らされる。
早く楽になりたいという想いばかりが頭をもたげてしまう。
持病は少しも良くなりそうにないし、むしろ悪化の一途をたどるばかりだ。
こんな状況でもなお生きねばならないということが本当に苦しい。
詩歌のみ読了。智恵子さんとの日々の慎ましさや、胸いっぱいに感じていたであろう愛情が痛いほど伝わってきて泣きたくなってしまった。
病気になってしまった智恵子さんを目の前にして、光太郎さんはさぞかしやりきれない想いをしたに違いない。
時代が時代だけに、「あたしもうぢき駄目になる」という言葉を発した、智恵子さんの抱いた恐怖心は想像にあり余る。それでも愛情はふたりを固く結びつけていたのだと思いたい。
私自身も難知性のメンタルの病気を患い、日々主人に迷惑をかけてしまっているが、それでも日々の生活にわずかばかりの光が差し込む瞬間を肌で感じている。その瞬間がまさに凝縮した詩集だと云っていいのかもしれない。
石田波郷『惜命』と並んで、今年のベスト本に確実に入るだろうなと思った一冊だった。
病を抱えてなお病とともに生きねばならない苦しみはいかんともしがたい。
こうして闘病の文学に触れる中で、生きる意味や希望をふたたび見出せるようになりたいと願う。
私もまた療養短歌を230首詠んでいる。
そのいずれも今は価値を見出せるものではないけれど、自分の詠むものを信じるしかない。公募にはおそらく落ちるだろうが、歌集は確実に編みたいと思っている。
読書にもふたたび本腰を入れて励みたい。
昨日こちらの記事を書いていて、アンナ・カヴァンの積読本を読みたくなった。
『アサイラム・ピース』は既読だが再読したい。
というわけで『草地は緑に輝いて』を読みはじめて、冒頭の二編を読んだ。
陰鬱でSFチックな世界観がやはり好みで、うつで参っている今は重い毛布のようにカヴァンの言葉が私を包む。
カヴァンの叫びは痛切でいて、なおかつドライだ。悲嘆を極端に突き放しながら描くので、私の心の内にたまってしまった澱のような悲しみや苦しみが共鳴して、もう少し生きていても良いかなと思える。
『アサイラム・ピース』を再読した方が今の気分に合うかと思われたのだけれど、「受胎告知」のヒロイン・メアリが屋敷に閉ざされているところなどは、今の自分と近しいものを感じて、シンパシーを覚えてしまう。
いかんせん弱り切っているのでスローペースな読書になるとは思うが、ふたたびアンナ・カヴァンの世界を楽しめると思うと少しわくわくする。
そうしてさまざまな文学や本に触れながら、少しでも自分の糧としていきたい。