詳細はこちらのブログに譲るが、セロクエルで調子を崩しているらしく、今日も胃腸の様子がおかしいし、起きているだけでつらい。
昨夜も希死念慮に包まれて徹夜をしてしまい、起きたのは11時で睡眠時間は7時間だった。睡眠は取れるには取れているのだが、少しも休まった気がしない。
出かける用事が色々とたまっているのだが、あいにくと今日はまったく動けないままだった。
振込にも行かねばならないし、薬を受け取ったり、図書館の予約本を借りて、すでに借りている本を返さねばならない。
考えるだけで頭がいっぱいになってしまい、つらい気持ちは否応もなく高まった。
振込は急がねばならないし、薬も早めに受け取りたい。
だが明日もおそらく調子が悪いだろうし、その次も、さらにその次も、一週間後も、一ヶ月先も調子が悪いのはもう宿命だとしか云えない。
調子が良い時は月に二、三度あれば良い方で、大抵は死んでいる。
そうして悲観的な気持ちに苛まれてしまった。
朝から夕方にかけてはひたすら気分も良くなくて、ずっと沈んだまま過ごした。
食欲もないので朝は抜いて、昼と夕方に雑炊をいただいた。
ここのところ冷たいものを飲むと途端に不調になるので、温かい紅茶を久々に淹れた。
ルピシアのアフタヌーンティーをミルクティーにしていただいた。
それから図書館エッセイ本の校正を少しばかり進めた。
体調が悪いので集中力がなかなか保たず、じっくりと一語一語を吟味する余裕もない。
全体に目を通して、適宜修正を加えつつ、全体のまとまりがきちんとあることを再確認するにとどめた。
できれば今月中にはKDPとして出版したかったのだが、あいにくと体調を著しく壊してしまったので今夏中には、ということにしておきたい。
初稿は揃っているし、あとは校正だけなのだが、場合によっては編集者の主人の手も借りることになるかもしれない。
仕事が忙しそうなだけに今は頼みづらいので、もう少し機を見計らいたい。
読んでいるうちに、蔵書のことなどは今はふたたび姿勢に変化が見られることもあるし、加筆したいなという想いに駆られたのだが、状況次第では第二部を作ることになるかもしれない。
いずれにせよ今はなかなか図書館に通うこともままならない状態なので、また原稿がこちらのブログにたまってきたら、ということにしたい。
それから小一時間ほど休んだものの、体調が整わないので、やむなく起きてシモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』のつづきを読み進めた。
特に次の言葉たちが印象に残った。
断末魔の苦悶は究極の暗夜であって、完徳の域にある人びとでさえ、絶対的な純粋さに達するのにこれを必要とする。ゆえに断末魔は苦渋にみちているのが望ましい。
存在は、完全かつ純粋に苦渋にみちた苦悩を味わったのちに、完全で純粋な歓びの炸裂のうちに消えさる。
──シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』悪28、岩波書店、2017年、p138。
神が創造したのは可能なかぎり最良の世界ではなく、善と悪のあらゆる段階を有する世界である。われわれ人間は可能なかぎり最悪の地点にいる。この段階をふみこえるや、悪は無辜となるからだ。
──シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』悪38、岩波書店、2017年、p144。
無辜であるとは、全宇宙の重みを支えること。釣りあう錘をおくことだ。
無辜ならざる存在の苦しみは罰であら。罰として感受され理解されるならば。さもなければ地獄の苦しみとなる。純粋な存在の苦しみは贖いである。
わたしは自身の苦しみを愛さねばならない。有益だからではなく、そこに在るからだ。──シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』不幸2、岩波書店、2017年、p145。
キリスト教の究極の偉大さは、苦しみに効く超本性的な治療薬を求めるのではなく、苦しみの超本性的な活用を求めるところにある。——シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』不幸8、岩波書店、2017年、p147。
半分ほどまで来たけれど、ヴェイユの思想はあまりにも厳しい。
この思想の実践はよほどの受難者で、敬虔なキリスト教徒でない限り難しいのではないかと思う。到底並の人間になせることではない。
ただ苦しみを苦しみとして味わうことにも価値があるのだと、私は思いはじめている。
苦しみをできるだけ味わいたくないものとして遠ざけるのはもはや不可能なのだし、ならばその絶望の淵で出会ったものを今は抱きしめていたい。
こうしてヴェイユの言葉のひとつひとつが重い毛布のように私に覆いかぶさってくるのが心地よく、短歌にもまた詠み込みたいと思う。
そうして短歌を10首詠んだ。
詳細はまた別途創作ブログにまとめたい。