ANIRON

ひとりごと日記

2021.08.03 思想の多面性と信仰のあり方とリトルプレスと

昨日から一転して、わりと好調かと思ったのだが、記事を書いていても集中力がとぎれとぎれになるし、相変わらず本を読むモチベーションも、作歌する意欲も湧いてこない。

瞬間的に小説を書こうと思っても、またすぐどうせ無理だ、となってしまう。

毎回そうして体調を崩して、ふたたび決意してまた崩す、の繰り返しだ。母からの電話でトカトントン、小説を書こうとしてトカトントン。何もままならない。

 最近は最後にこの両手に残るものだけが私にとって本当に必要なものなのだという締念じみた想いが頭から離れない。そうして大事なものをひとつずつ淘汰して、失ったものばかり数えて、虚しい想いに駆られて、どうしようもない。こうして詩が生まれ、あるいは短歌も生まれるけれど、それも価値があるのかよくわからない。

何もかもがやぶれかぶれになる夜に、ふと思い出すのは過去の恋愛ばかりで、そのどれもが遠く過ぎ去ってしまって、「花様年華」をまた観たいなと思ってしまう。

もう何度も繰り返し観ているのだけれど、何度観ても色あせない映画だ。

青春時代は終わってしまったし、恋愛も終わってしまった。その余韻にいつまでも浸っているのは何ら生産的ではないけれど、それでもサウダージに浸ることでしか癒えないものもある。

 昨日実は商業BL漫画を読んで、全編にわたって愛に満ちた性愛が描かれていて、こうしたものに触れたいと思うのは、性愛で受けた自分の傷を修復したいという想いが根底にあるのだろうなと思い至った。

BANANA FISH』のように同じ地獄に立ってくれる作品は好きだし、愛しているけれど、それでもかさぶたをそっと慰撫してくれるような愛情を求めている。

 主人のことは本当に大切に想っているけれど、家族として愛しているのであって、恋愛感情は少し薄れつつある。それでも恋愛をしていたいと思う。

そういう時にフィクションでそれを満たそうとするのは、不倫で満たすよりもずっと健全なことだと思うし、実際のところそうして30代になって商業BLやTL、少女漫画にハマる人は私が思っているよりも多いのだろうなと思う。

そういう文化の一翼を、自分が一消費者として担っているのだと思うと、案外自分も嫌悪しているにせよ、フェミニズムの一端を担いでいるのかもしれないと思う。

人間は多面的な生きものであって、矛盾する主張を内に秘めながら、それでも生きていくしかないのかもしれない。

 

キリスト教神道というふたつの信仰も、完全に決着がついたわけではないし、神道のすべてを無条件に受け入れているわけではないということは先にも書いた。

aniron.hatenablog.com

それでも毎日お宮に参拝して頭を垂れていると、私にはこれで十分なのかもしれないと思う。

f:id:aniron:20210730224757j:plain

日々二礼二拍手一礼をして、「今日もお見守りください」と願う。それだけでも心のありようがいくらか楽になる。

白洲正子のような知性、あるいは谷崎潤一郎が「吉野葛」に書いた信仰のあり方の方が私には合っているのかもしれない。

f:id:aniron:20210803220650j:plain

その人の好さそうな、小心らしいショボショボした眼を見ると、私たちは何もいうべきことはなかった。今更元文の年号がいつの時代であるかを説き、静御前の生涯について『吾妻鏡」や『平家物語」を引き合いに出すまでもあるまい。要するに此処の主人は正直一途にそう信じているのである。主人の頭にあるものは、鶴ヶ岡の社頭において、頼朝の面前で舞を舞ったあの静とは限らない。それはこの家の遠い先祖が生きていた昔、──なつかしい古代を象徴する、或る高貴な女性である。「静御前」という一人の上臈(じょうろう)の幻影の中に、「祖先」に対し、「主君」に対し、「古(いにしえ)」に対する崇敬と思慕の情とを寄せているのである。そういう上臈が実際この家に宿を求め、世を住み侘びていたかどうかを問う用はない。せっかく主人が信じているなら信じるに任せておいたらよい。

──谷崎潤一郎吉野葛蘆刈岩波書店、1950年、pp37-38

 

考証や研究も必要には違いないが、歴史というものはまさしくこういう姿でしか現れまい。そこに若干のフィクションがあろうとも、そのフィクションがたとえば「吉野葛」の文章のように真実以上の真を語るなら、嘘から出たまことのみが歴史だと、そう言い切っても過言ではないと思う。一体何がほんとうか。ほん物なのか。疑いだしたらどこまでも疑える。史書にあるからといって、或は外国の記録にあるからといって、頭から信用する人たちを私はいつも疑問に思っているが、そんな単純な質問に誰も答えてくれる人はいない。

──白洲正子『かくれ里」講談社、1991年、p83

学術的な正しさや厳密さでは推し量れない信仰のあり方というものもあるし、現に信仰心を抱いているのなら、それがすべてなのだろう。

学問的に正しい信仰のあり方が信仰のすべてではないのだと思う。

現に私のルーツは神道以前の民俗宗教的な信仰にあるから、学問だけでその正しさを保証することはできないし、民俗学にもふたたび手を伸ばして学ばねばならないと思うけれど、それでも自分の信仰は信仰として大事にしておきたい。

それにしても学ぶべきことはあまりに多いし、私はそのように書いていてもまだまだ至らないことばかりだ。

 

それから間もなくとんでもない憂鬱に見舞われて、やむなく頓服のレキソタンを飲んだ。

昼食を摂れなかったのでお茶を二度して、ルピシアのマスカットと塩ヨーグルト、彼杵茶と柿の種をいただいた。

f:id:aniron:20210803210309j:plain

f:id:aniron:20210803210321j:plain

 

それから主人が料理を作ってくれている間、『てきちゃん漂流記』という双極性障害の方の日記のリトルプレスを読んでいた。

inumachi.stores.jp

f:id:aniron:20210803210331j:plain

双極性障害の闘病日記ということで、少し身構えてしまう部分もあったのだけれど、飄々とした軽妙な語り口と、次々と繰り広げられる話の面白さに引き込まれてしまった。

ラジオを聴いているような文章で、読んでいてとても心地が良いし、共感するところも多くて買って良かったと思う。

日記をこうしてリトルプレスにするにあたっては、さぞかし勇気がいることだろうと思うのだが、私もこの日記のいくらかをいずれ電書にできないだろうかとうっすらと考えている。

ここのところ思想の話が多いので、その紆余曲折をKDPにしても面白いかもしれない。

それにしてもこんなに面白い本になるかどうかは分からないのだけれど。

こうして人の闘病日記を読むと自分自身の励みになるし、眠れない夜の友として、これから読んでいきたい。