ANIRON

ひとりごと日記

2021.08.04-05 眠れぬ夜に

眠れずに3時まで起きて、論文や宮崎駿論などを読みあさった。

 

岡本雅享「民族宗教アイデンティティ──北米・ハワイからみる神道

http://210.168.184.3/research/asia-pacific/pdf/publication_2009-02.pdf

 

 

きっかけは「神道は未だに国家神道を克服できていない」と主人に話したところ、「そうなの?」と問われたことだった。

現に靖国神社の問題等々、未だに神道国家神道の影響を免れることはできていない。岡本雅享「民族宗教アイデンティティ──北米・ハワイからみる神道」にあるように、

戦後、この国家神道体制はGHQによって解体 された。しかし、その中身は、神社本庁に器を 移しかえて受け継がれているようにみえる。1980 年に採択された神社本庁憲章は「神祇を崇め、 ─ 15 ─ 祭祀を重んずるわが民族の伝統は、高天原に事 始まり、国史を貫いて不易である」で始まり、 「大御代(天皇の治世)の彌栄を祈念」(第1条) し、「神宮を本宗と仰ぎ」(第2条)、「敬神尊皇の 教学を興」す(第3条)ことを掲げ、「神社は… …皇運の隆昌と氏子・崇敬者の繁栄を祈念する ことを本義とする」(第8条)と定める。全国神 社の99%(2004年現在)が、この皇典講究所、大 日本神祇会、神宮奉斎会をベースに結成された 神社本庁の傘下にあるということは、戦後60年 以上を経て、神社神道が、未だ国家神道の呪縛 の中にあることを物語る。

 

大日本帝国の歴史を宗教面でみるならば、廃 仏毀釈に始まり、現津神(天皇)の人間宣言に 至る、まさに神殺しの時代だった。こうして日 本人の多くは、古来から地域で拠り所にしてい た土地本来の神々=宗教的ルーツを失い、それ が今に至る日本人の宗教的アイデンティティの 空ろさに繋がっているように思われる。

という箇所は極めて妥当だと考える。

中国は文化大革命によって、それまでの民間信仰の多くを破壊された。

日本もまた国家神道によって失われたものはあまりに多く、その失われたものの名残がまだかろうじてふるさとにはあったけれども、それも度重なる獣害・高齢化・過疎化によって失われようとしている。危機的な状況にあることは間違いない。

それを何とか残すことはできないのだろうかと思いながら、お宮を日々仰いでいる。

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以前「文化の多様性を保全することの是非」「文明は不可逆なもので、文化はそれでも残るもの」ということについて主人と話し、私は保守的な人間なので、あくまでも文化は守られるべきものだと考えてしまった。

しかし主人曰く文化はもっと混沌としたもので、さまざまな影響を与え合いながら変化していくのは自然の流れだと云っていた。

そちらの方が理に分があるし、むろんそういうものだとは思う。文化の純粋性というものは幻想で、古来日本においても中国文化や韓国文化の影響なしに日本文化は成り立ち得なかったのだから。

とはいえ時には現在の中国のように文化復興の動きが強大なナショナリズムと結びつくこともある。それを作られた伝統と一刀両断することはできるけれど、それでもそうして復興する動きがなければ、文化は受け継がれてはいかない。

ナショナリズムやネーション・ステートの形成に文化というものが政治的に利用されているという見方は妥当だけれども、それでも全くそうした動きをなくして、アイデンティティを保持したり、文化を継承していくことは難しい。

そこに深い葛藤がある。未だにその問題は克服されているとは云いがたいし、私はナショナリズムを完全悪だとして徹底的に排除することもまたよろしくないし、それは不可能なのだろうと思っている。

そうした揺り戻しの動きと、変革の流れが相まってできているのが歴史というものなのだろう。

大学を出てしばらく経ち、まだまだ勉強が至らない身なので、こうして思想も信仰も定まらない。

難治性の持病もあり、大学院へ行くことはできなかったけれども、今後とも引き続き本を読み、主人と議論を交わしながら、生涯にわたって神道を学びつづけたいと思っている。

 

2021.08.05 追記

Twitterで庭にペットの猫の遺骨を納めた神道式のお宮を作って、神様になってほしくて祀っているという趣旨のツイートを見かけて驚くとともに恐怖を感じた。

おぞましいラノベ脳的な思想だと思う。

稲荷信仰とか蛇神信仰のつもりなのだろうけれど、彼らは歴史的・社会的に位置づけられてきた神であって、神道に死や遺骨などの穢れを持ちこむのは基本的には御法度だ。
宗教というものが社会性を失ってごくごく個人的なものになった結果なのだろうけど、いくらなんでもそこは仏教式で火葬して供養してあげようよと思ってしまう。

亡くなったものは弔うものであって、それは成仏して浄土で幸せに暮らしてほしい、そして現世に生きる自分たちを見守ってほしいという願いに他ならない。神様になってほしいというのは人間のエゴイズムであって、猫が浮かばれないだろう。
サブカルチャーにしか信仰のよりどころがないのは本当に無意味で空疎だ。自分自身を含めて。

私の場合はふるさとが信仰のよりどころだけども、そこは開発と獣害と高齢化・過疎化で荒廃してしまっているし、もはや土地に根ざした信仰というものが失われてしまっている。

その行く先はあまり明るくない気がする。神道は土地や地縁から離れては成り立たない。
その結果招いたのが国家神道だとも云えるのかもしれない。土地から離れて、政治化・イデオロギー化された信仰は、時の権力者によって、恣意的かつ歪にゆがめられてしまう。

成立時点からすでに神道と政治とは切っても切れない間柄にあることはたしかで、未だに政治から完全に離れられないことが神道にとっては最大の問題点と云うべきなのだけど、政治から離れたところでもすでに崩壊が起こっていて、それらが招いた結果がこの猫神神社なのだろうな。

学術的に完璧に正しいかどうかが信仰のあり方ではないということは前に書いたけれども、それでも最低限学んでおかねばならないことはあるし、神道は教義なき宗教と云われるけれど、それでも宗教として、あるいはコモンセンスとして守るべきことはある。

そこが欠落してしまうと、信仰はもはや信仰たり得なくなってしまう。

宗教というものが今後は社会から離れて個人化していくということは、かつて読んだ『いま世界の哲学者が考えていること』にも記されていたけれど、それにしても何でもありになってしまったのでは、それはもはや信仰ではなく、思想でもない。

強いて云うならば個人的ポリシーと云うべきもので、それはひどく矮小化されているし、社会性を持ち得ず、よって普遍性も担保し得ない。

私がスピリチュアルから距離を置いているのも、ひとつには信仰が信仰たり得ないほどのガバガバな教義と、俗世的な拝金主義と、人間を救い得ない空虚さにあるのだけれど、そうしたものはやはり遠ざけておきたいと強く思う。