ワクチンの副反応と大雨でメンタルがごりごりと削り取られ、結局徹夜をしてしまった。
自分の思想の在処がふたたび分からなくなり、その葛藤に苛まれていたのも大きいのだけれど、保守系の論客のTwitterのツイートを4時になるまで観ていて、やはり私はフェミニズムとは相容れないのだなという想いを新たにした。
この辺りの思想をもっと固めたいという想いもあるし、それはTwitterだけではどうしようもないので、やはりブログでこうして考えを深めながら、本も読んでいきたい。
現在の歌壇の状況もフェミニズム一色で芳しくないし、このまま作歌をつづけていいのかしばらく思い悩んでいる。
フェミニズムの傲慢さは過去にさかのぼってそれに該当する解釈を施すことで、その試みは学生時代から強い違和感を感じていた。
もはや時代がそういう潮流に呑み込まれてしまっているのか、たとえばジブリ作品でもフェミニズムの視点から批判するということが実際に起こっているし、従来良しとされてきた文化を破壊するものの側面もたしかにあるのだということを強く感じて懸念を覚えている。
ジブリヒロインはよく家事に励んだり働いたりするけれど、それは宮崎駿監督の思想と理想とする女性像であって、むしろフェミニズム的側面を強く有している。
女の子にももっと冒険してほしいという思想からジブリヒロインは生まれてきたし、それを否定するのはフェミニズムに加担する人たちにとって筋違いというものだろう。
言葉尻を捉えて短絡的に直感的に非難する人が後を絶たない。
ただの感情論に振り回されるのにいい加減うんざりしている。それは思想とは呼べないし、フェミニズムを掲げるのなら徹底した理論に拠らねばならない。
フェミニズム的解釈の拡大と浸透によって、時代はもはや不可逆的なものになろうとしている。
それがたまらなく恐ろしい。狩られるのは男性ばかりではなく、保守的な女性の立場も危うくなる。
暴力という言葉にあまりにも過敏に反応するわりに、自身の暴力性に無自覚なところがたまらなく嫌悪感を催させる。あなたも女性なんだからフェミニズムを否定するのはおかしい、という風になりかねない。
「フェミニズムを掲げる私たちは絶対に正しい」というのは暴力性の裏返しでもある。
そしてたちの悪いことに反フェミニズムを反知性と安易に結びつけて説く人間があまりにも多すぎる。
私は感情論的に女性を阻もうとするものすべてを憎むということが知性だとは到底思えない。保守的な女性は無知蒙昧で啓蒙しなければならないと考えているところも非常に傲慢だし、保守的な女性には男性を支え、その庇護下で生きてきたという生き方がある。
上半期に読んだ『カサンドラ症候群 身近な人がアスペルガーだったら』には、発達障害の男性には、彼を傍で支える妻という構図の夫婦がうまくいくという一文が書かれていた。
これも現代の価値観にそぐわないと糾弾されてしまうのかもしれないけれど、カサンドラ症候群がここまで問題になったのも、ひとつには女性の社会進出が背景にあるのではないかと思う。
夫のために自分を犠牲にするなんてとんでもないという風潮は強いけれど、それでも男女和合の精神を考えると相補的に補い合うのが結婚のあるべき姿で、その役割を女性が放擲してしまったら、途端に家庭は成り立たなくなってしまうのではないのだろうか。
家庭生活を営むということは、ある程度自分を犠牲にする必要があるし、協調していかなくては暮らしは成り立たない。
その範囲で自分のやりたいことをする分には自由だし、実際に私はそうしてブログを書いたり詩歌を作ったりしている。
主人が発達障害的な傾向を持っていることは分かっているし、それでも良いところに目を向けて褒めたり伸ばしたりするというのが今の私の役割なのだろうと思う。