終戦記念日だった。
神棚に戦没者の慰霊のお祈りを捧げて、一日がスタートした。
ワクチンの副反応で昨日は一日ダウンしていたけれど、今日はなんとか持ち直した。
しかしやはり思想のことでまだ折り合いがつかない。
というウィンストン・チャーチルの言葉があるけれど、実際のところ私は30代で、その過渡期にいるのだろうと思う。
相変わらず短歌を詠めずにいるし、詩も書けずにいるのだけれど、それでも歌集は思ったよりもお買い上げいただいているので、これを励みにさらに邁進していきたい。
ちょこっと文芸福岡に出展する予定だった歌集の折本です。 ゴシックな雰囲気が香る療養短歌30首を収めています。
青薔薇の冠授けよとこしえに無数の棘は言葉となれり
療養短歌をテーマに詠んだ、短歌30首を収めた折本歌集のPDFです。 失われた恋への挽歌、過ぎ去った夏へのノスタルジーをサブテーマとし、ダークでゴシック、耽美な作風を志向しています。
世の終わり詩神は死せず海の果てきみとふたたび巡り逢うまで
AnthemはCoccoだったね沈黙を守ってふたり白百合の園
どうにも気持ちに折り合いがつかないので、主人の勤める業界から結婚祝いにいただいた図書カードで以下の本を買った。
藤原定家全歌集はかねてから買わねばと思っていた本だったし、古典詩歌をもっと学びたいという気持ちが高まっているので、このタイミングで買えて良かったと思う。
反フェミニズムの一件もあって、某歌論と歌誌は購入を見送った。
フェミニズムは短歌のトレンドとなりつつあるけれど、私はそこに与したくないし、投稿はつづけるけれど、やはりフェミニズム的文脈とは距離を置いておきたい。
それから思想のことで調子を崩し、発作も出た。
私はやはりまだ保守主義としての自分を肯定できずにいるし、保守=反知性主義というレッテルが根強い今、それを何とか打開せねばならないと思う。
保守主義にもしかるべき知性はあるだろうし、それを本の力を借りながら、自分の手で何とか築いていかねばならない。
ナショナリズムも家父長制も全否定されてしかるべきもの、打ち壊すべきものという風潮が強いけれど、その中で女性はただただ抑圧されてきたのだろうかという疑問が拭い去れない。
昨日はカサンドラ症候群の話を書いたけれど、夫婦関係における諸問題も、もっと前段階に話を移せば恋愛や結婚、出産にまつわる問題も、この女性の社会進出の問題が大きく絡んでいるのではないかと思う。
今日はTLで恋愛を絶対視しないことが善であるという趣旨のツイートが流れてきて、それに賛同している人もいたけれど、そうして個々人が自由を求め、責任を負わなくなった結果、恋愛や結婚はコスパが悪いという現代の風潮が生まれてきたのだ。
その先にもたらされるのは過疎化と高齢化で、この問題は国家の施策の問題でもあるし、個々人の責任に帰することは難しいけれど、それでも個人のエゴイスティックな自由と幸福の追求の果てにあるものは一体何なのだろう。
現代において人とのつながりが希薄になり、心療内科は予約で埋まり、素人の書いたメンタルヘルスにまつわるゴミのような本が書店にずらりと並ぶさまは異常な状態だと思う。それも家庭や家族というものの崩壊が招いたことなのではないか。
人とのつながりなくして人間は生きられないし、そこには自由だけではなく責任も伴う。その中で生きていかざるを得ないのが人間というものなのだし、恋愛や結婚を全否定する風潮は私には理解しがたい。
疲弊しながらNHKテキストの『趣味どきっ! 人と暮らしと、台所〜夏』を読んだ。
前巻の方が好きだったけれど、今回の見所はなんといっても作家陣による台所にまつわるエッセイ。
どれも魅力的でしたが、千早茜さんの台所が居場所となっているという趣旨のエッセイや、岡根谷美里さんの「賑やかな台所」の台所という場所の持つ可能性と自由さを感じられたエッセイが良かったです。
今日のお茶は二度。
ルピシアのマスカットをアイスティーでクリアボトルに淹れて、部屋でのんびりいただいた。
大判焼きと彼杵茶は主人とともにいただいた。
涼しくなってきたので、温かいお茶をいただけれるのがとてもうれしい。
このあとはさらに本を読んだり、できれば詩を書きたいと思っている。
短歌はまだしばらく詠めないかもしれないけれど、足掻けるだけ足掻いてみたい。