ANIRON

ひとりごと日記

2021.08.19 信仰と思想と

読書意欲と創作意欲がかつてないほど落ちていて、危機感を感じている。

こういう時はあまりじたばたせずに、軽めの本を読むなど、無理のない範囲でインプットに努めるに限るのだけれど、その意欲もなかなか湧いてこない。

先日同年代の大学時代の友人と話して、文学に触れないことを選択するということはこういうことなのかとまざまざと思い知った。

彼には彼の思想があるし、それは尊重されてしかるべきなのだけれど、「どうしたら幸せになれますかね?」と訊かれたことが鮮烈な印象に残った。

物語に触れることは少なからず生きる意味を与えてくれると私は信じているし、これまではずっと物語を味わって人生を送ってきた。

それでも小説が書けなくなってから、小説に触れることが恐ろしくなってしまい、そこからほとんど小説を読めていない。私もまたひとつの危機に瀕しているのだろうと思う。

 

買ったまま積んでいる本がプリンターの上に積み上っているけれど、そのどれもに食指が動かない。短歌にも私は深い幻滅を覚えているのだろうと思う。結局左派の牙城のようなところがあって、その急進的な思想に触れるたびに辟易してしまう。

結局買おうか迷っていた本も買わずじまいになりそうだ。

ならば短歌をすっぱりやめて、詩に集中するのか。

そこまでまだ思い切れずにいる。弱い人間としての「私」に根ざした短歌というものは有効だと思うし、結局そこに立脚しない限りは短歌を詠むことは難しいということを実感している。

弱い人間としての「私」を深く自覚せねばならない。そこからしか文学は生まれ得ないというのが今のところ学んできたことで、その反省に立たねば、私は新たな創作物を作ることはできないのだろう。

 

ここ数日、保守思想を抱くことに強い自己嫌悪と罪悪感を抱いてきた。

体調も崩したし、日記を書くことが恐ろしくなって、Twitterに投稿することもためらわれて、ほとんど浮上できなかった。

それでも思想というものはそう簡単にひっくり返るものではないし、私の置かれた境遇では、保守的な思想を抱いて生きるのが、私にとって一番生きやすいという結論に達したことは何の変わりもない。

実際ポリティカルコンパスを再度やってみたら、やはり保守左派という結果になった。

sakidatsumono.ifdef.jp

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とにかく知性に拠らねばどんな思想であれ脆く崩れ去ってしまうという懸念も強く、このままではネトウヨになってしまうのではないかという危惧があまりに身に迫って感じられて、つらくてしょうがなかった。

ネトウヨと保守とは全く性質を異にするものだと私は思っているし、知性に拠って物事を捉える必要性があることには左派であれ保守であれ、何も変わらない。

Twitter上の軽率な言論にばかり振り回されている自分にも厭気が差している。

やはりしっかり自分の頭で考え、本を読んで学ばねばならない。

 

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朝からお詣りすることができずにいたので、夕方頃、比較的調子良く過ごせたことを感謝してお宮にお詣りした。

神道を奉じて良かったなと心から思う。

気持ちも穏やかになるし、ふるさとに想いを馳せて、その安泰を祈るよすがにもなっていて、私にとって祈りのひとときは大切な時間になっている。

思えば祖父母も信心深い人たちだった。幼少期から祈りは生活の一部として組み込まれていたし、父方の祖父は毎日仏壇の前で朗々とした声で読経をし、母方の祖母はふるさとのまだ土着の信仰が残る石碑や地蔵菩薩のひとつひとつに頭を下げるようにと教えてくれた。

そういう文化はもはや失われつつある。

前時代的だと嘲笑するのはたやすいが、信仰を失ってしまった結果、この国の人間は心のよりどころを失ってしまったと思わざるを得ない。

書店には素人の書いたメンタルヘルスの本がずらりと並び、その様は正直異様だと思う。メンタルを病むことが異様だと云いたいのではない。多くの人がそうした本に救いを求めずにはいられない社会がおかしいのだ。信仰なき現代社会の末路の一端が表れている気がしてならない。

 

そうした想いに駆られて、かねてから読んでいた瓜生中『よくわかる山岳信仰』を読み進めた。お茶は愛飲している出身地・長崎の彼杵茶を淹れた。

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神仏分離によって修験道が解体され、それまで日本人が心のよりどころとしていた民間信仰も多くが破壊されてしまったことが強調されていた。

やはり国家神道の犯した罪はあまりに重大だ。

私は保守ではあるけれど、国家神道を決して良しとしているわけではない。日本人のアイデンティティ国家神道にあるのではなく、それ以前の民間信仰や民俗宗教にあるという思念は学生時代から変わらない。

そこをはき違えて国家神道を日本人のアイデンティティとして奉じるのは大きな間違いだし、知性の敗北というものだろう。反知性主義の誹りを受けてもしょうがない。

日本にはそれ以前に、もっと雑多で、そしてもっと豊かな信仰があった。

 

そしてそれは時代の変化とともに急激に失われつつあり、今となってはサブカルチャーがその一端の担い手となっている節がある。

夕食を摂りながら白い砂のアクアトープ3話を観ていて、獣医師の先生が自身の子どもと出会うシーンでぼろぼろと泣いてしまった。

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アニミズムの本質は自然への畏怖と、その豊穣さに母性なるものを見出すところにあると云えるだろう。

まさにこのシーンもアニミズムの一端の表れだと感じた。

信仰を失ってしまった現代日本社会を生きる私たちは、もはやアニメの中にかつての信仰を見出す他ないのかもしれない。

その担い手としてアニメや漫画、ゲームが果たす役割は大きいし、たとえ厳密な意味で正しい教義や解釈を持たないとしても、その根源的な魂は引き継がれていると信じたい。