ANIRON

ひとりごと日記

2021.08.21 無縁社会の病理と、アイデンティティの再認識

結婚式の打ち合わせの日で、起きてから身支度をして出かけた。

その前に主人と実家について話した。

昨日書いたこととおおむね趣旨は変わらなくて、主人は個人主義自由主義の立場に断つ人だけれど、身近に親御さんとの葛藤を抱えている人を見てきているから「大人だね」と分かってくれた。

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自分もまたその瀬戸際にいるという意識を強く抱いて、無縁社会についてもっと知りたいと思い、昨夜三冊を注文した。

 その話を主人にしたところ、一番上のNHKスペシャルの『無縁社会』は主人も持っているらしい。

 

そもそも血縁・地縁ということを考えるきっかけとなったのは、鬼滅の刃のアニメがきっかけで、それだけに禰豆子ちゃんは私にとって大切なキャラクターなのだけれど、そうした血縁が薄れた結果、よりどころを失ってしまっている人は、おそらく多いのだろうと思う。

鬼滅の刃がヒットしたのも、ひとつにはこの無縁社会の拡大が影響しているのではないだろうか。

 

血縁・地縁を善きものとする風潮はもはや失われてしまった。

親は毒親であれば今すぐにでも絶縁すべしと説くネット記事が溢れ返り、精神科医は患者の病理を親の責任に一元化してしまう節がある。

身体的な暴力や虐待などはもってのほかで、今すぐにでも絶縁すべきだが、教育上の歪みが生じていたという場合に、親を切って捨てるという考えが賞賛されている現状は、やはりそれそのものがいびつだと思う。

医学的根拠があってのことだとは思うが、自分の病気はすべて親のせいだと思い込むことで、私は母と対立し、私自身は18歳のときに自殺未遂にまで追いこまれた。

私の古くからの付き合いのある友人の中にも、精神を病んでしまい、やはり親のせいと医師に云われたのがきっかけで、親子関係が悪化してしまい、彼女の母親から悩み相談の電話がかかってきたと実母が語っていた。

 

 

それは医学的にはたしかなことなのかもしれない。

しかし親を完全に克服することは、ほとんど不可能なのだし、不可逆的な教育というものにすべての責任を帰しても、何ら建設的ではない。

生まれるのは憎悪と対立ばかりで、ここのところ毒親を謳う本は山のように出ているけれど、その著者たちが私の人生に責任を負ってくれるわけではない。

今の社会は決して健全な世の中とは云いがたい。

書店にメンタルヘルスの本がずらりと面陳されているのも異様な光景だし、あまりにも病理が深い。

個人主義の行き着く先がもたらしたのは果たして幸福だと断言できるのだろうか。

 

先日、シロクマの屑籠さんの記事を拝見して、大変重要な指摘だと感じたので引用させていただく。

p-shirokuma.hatenadiary.com

日本人が健康を意識するようになり長寿を実現していった時期と、日本人が個人主義のセンスを内面化し、血縁や地縁といったセンスを忘れはじめた時期はだいたい重なっているようにみえる。が、そこにどのような関連性があるのか、ここでひも解くことは難しい。
 
いずれにせよ、日本人の健康長寿へのこだわりに比べれば、子々孫々の繁栄へのこだわりは目立たなくなってきている。血縁や地縁によって人々が強く結びついていた時代、ひとりひとりが年老いて死ぬとしても血縁や地縁は不滅だった。その不滅性は、お盆や正月などの行事をとおして毎年確認できていたはずだった。
 
この、地縁や血縁の不滅性という点では、お盆はよくできた行事だった。子孫が先祖を迎えるだけでなく、先祖が子孫の繁栄を確かめられる行事としてのお盆。と同時に、たとえ死んだとしても子々孫々との繋がりが失われないことを生前から知っておける行事としてのお盆。

 

だったら、老いや死の恐怖におびえる人に本当に必要なのは、健康長寿をやみくもに延長することではなく、個人的な死生観を子々孫々と繋がった死生観へと再構成し、自分自身の永遠ではなく先祖ー自分自身ー子孫の連なりを取り戻すことではないだろうか。もちろん、ここでいう先祖ー自分自身-子孫の連なりが、昭和以前の家父長制家族と同じでなければならない道理はない。今の時代にふさわしい連なりが再発明されなければならないだろう。

 

たしかに昭和以前の家父長制家族に回帰することは、どうしても時流にそぐわないのかもしれない。

しかし、他に新たなつながりを作るとは云っても、それはゆるやかな連帯ということになるのだろうし、その流動的なつながりによって、人間はアイデンティティを保つことはできるのだろうか。

私はパターナリズム的環境で育ち、他の誰かと許し合えないようなトラブルに陥ったとして、それで関係が絶たれてしまったとしても、家族という血縁ならば修復ができるという価値観の中で生きてきた。

その価値観の中で血縁を結束力の強い共同体、アイデンティティの根本にあるものとして位置づけた方が私は生きやすい。

友人はあくまでも他人だし、今では付き合いのなくなってしまった人々もいる。環境が変われば付き合いも変わるし、年齢が変われば関係性も異なってくる。そこに逐一自分を合わせていては消耗するばかりだ。その流動性の中にたしかなアイデンティティを抱くということは、なかなか困難なのではないかと思う。

私は結局家族というものを信じているということなのだろう。

持病があって子どもを産むことは諦めざるを得ないけれど、それでも今は主人との絆をより深めて、家族としての関係性を大切にしていきたいと考えている。

 

また、実際にここのところ保守思想について考えたり、神棚に故郷のことをお祈りするようになってから、心身が安定してきたと感じている。

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結局のところ私はこれまで新たな家庭という環境に云いようのない不安を感じていたのだろうと思う。まるでふたりだけで生きていかねばならないような空恐ろしさが身に迫って感じられていた。

しかし私自身のアイデンティティが故郷とのつながりの中や、あるいは実家や祖父母という血縁の中にしっかり根づいているということを再認識したことがきっかけで、それまでぐらついていたアイデンティティも安定してきたのだと思う。

地縁・血縁を今後とも重んじながら日々を送っていきたい。