何度目か分からないディスプレイが完成した。
コノハナサクヤヒメ
イラストはいずれも幻想堂さんのもので、一目で気に入ってお迎えさせていただいた。
まだ見慣れずに落ち着かないのだけれど、今日は改めて信仰心について考えるきっかけがあったので、それについて掘り下げてみたい。
直接的なきっかけは、菅野久美子『家族遺棄社会』というノンフィクションを読んだことだった。
この本ではさまざまな問題が取り上げられているけれども、その根幹には血縁・地縁の希薄化と、その根幹をなしてきた宗教文化の衰退があると私は読んだ。
この読み方をする時点で私はあくまでも保守的な観点からこの本を読んだということになるのだけれど、やはり毒親という言葉が一人歩きしている現代の状況は問題だと思う。
それについては以前書いたので繰り返さない。
ただ親を捨てるということに抵抗がないという現状の有様が、祖霊を重んじる日本の伝統的な宗教文化の破壊につながっていることは直結している問題だし、家父長制崩壊と個人主義偏重の問題はやはり根深いものがある。
祖霊を重んじる宗教文化の破壊という点に関しては、終盤に出てきた0(ゼロ)葬と呼ばれる、火葬だけですべての葬儀が完結することにためらいを感じる人が少なくなりつつあるということに直結している。
私の祖父母は毎日仏壇で祖霊を拝んだり、読経を上げたりする人たちだった。
祖母や祖父が仏前で念仏を唱える声は未だに深く記憶に残っている。
たとえば私の両親や義両親が亡くなった時に、仏壇がないということになれば、到底耐えられないだろうと思う。
神棚に日々出身地・長崎やふるさとのことをお祈りして、地縁のよすがを得るのと同様に、仏壇は血縁をたどり、想いを馳せたり、感謝の意を伝えたりするのに、どうしても必要だと私は感じる。
母との折り合いをつけることは難しいけれど、保守思想に拠ることで、その縁をどうにか保っている節があるので、今後とも保守思想に拠りながら、家族を大切にしていきたい。それは私の心身の健康にもつながるし、母と折り合いがつかない時も、育ててくれた祖母を思えば、いくらか気持ちも楽になる。
そうして祖先とつながっているという実感がなければ、到底私は生きていけないし、実際のところ結婚によってそうしたアイデンティティ・クライシスを迎えていたことは以前書いた通りだ。
信仰というものは趣味的なものではなく、アイデンティティに直結するものだから、私の軸は今後揺らぐことはまずないと思っている。
そうして自分の軸をしっかり持っていれば、病気で心が折れそうになった時にも、信仰というアイデンティティがよりどころとなってくれる。
またこの本で特に気になったのが、働き盛りの30〜40代の孤独死で、彼らは単身者でワーカーホリックで、食事の面などで不摂生な場合が多いと記されていた。
私にも思い当たる人が身近に2、3人いる。
特に気がかりなのが妹で、独り暮らしで自炊はしないし、結婚願望も薄いと云っている。今は男性アイドルに夢中なようだ。
その方が楽だから、という風に生涯未婚の道を選ぶ人が増えているけれど、それは果たして健全なことなのだろうか。
一時期、結婚のことについてもっと知りたくて、牛窪恵『恋愛しない若者たち コンビニ化する性とコスパ化する結婚』を読んだ。
もちろん若者の貧困という根深い問題はあるにせよ、それでも一人の方が楽だから、誰かと協調したり、折り合いをつけて共同生活を送るのは向いていないから、というのは、行き過ぎた個人主義だと感じる。
楽だからという理由で自炊をしないのも、結局自分自身の心身を損ねることにつながりかねないし、上に挙げた彼らはそうした不安要素を抱えている。
ちなみに高齢者の孤独死は、これらの中年層の孤独死に比べると、地域の見守りといったセーフティネットが機能するおかげで免れる人もいるという。
そう考えると中年の危機と呼ばれる問題はこうした孤独死にも深く結びついているのかもしれない。
人間はひとりで生きていくことはできないし、菅野久美子『家族遺棄社会』にはゆるいつながりを持つことの大切さを説いていたけれど、友人だからという理由でどこまで自分を助けてくれる人がいるだろうか。
正直なところ家族以外を置いて、誰が最後まで責任を持って自分とともに寄り添ってくれるかと考えると、かなり難しい。
友人はあくまでも他人だし、支え合うと云ってもその関係性は流動的で、私には20年来、10年来の友人がいるけれど、彼ら、彼女らとさえそこまでの関係性を築くことはできていない。むしろあまり個人的な悩みを打ち明けないからつづいてきたのだろうと思っている。
やはり最後の最後に信じられるのは血縁を置いて他にはないのではないか。
そう考えると、やはり少しでも親孝行をしたり、姉妹の仲を良好に保っておきたい。
たしかに保守主義は今の時流に合わないのかもしれないし、このままどんどん廃れてしまうのかもしれない。しかし私にはこの社会があまりにも急進的に変わりすぎてしまったように思えてならない。特に平成の30年の間に日本は貧しくなり、日々SNSを通じて人心が荒んでいると感じることも多い。
またコロナ禍によって不透明感は増していて、この先心細い想いをする人はさらに増えていく一方なのだろうと思う。
そうした時に自分のよりどころとなるものをしっかりと見つめ、それについて学んで考えることが、これからの時代を生き抜くすべとなると私は考える。