ANIRON

ひとりごと日記

2021.08.26  Twitter疲れと血縁と

ここのところTwitterを観ていて感じるのだけれど、私たちはあまりにいろんなことに気を取られたり、反応し過ぎなのではないかと思う。

むろん社会のことには関心を持つべきだし、選挙に行って自分の意思を示すことは国民の権利であるとともに、民主主義国家においては欠かせないことだけども、さまざまな問題に対して感情的に反応して他者を排撃するということを、左右を問わず、Twitterにいるとしょっちゅう見かける。

我々はあまりにいろんな刺激に過剰に反応しすぎなのではないか。

そうした刺激から離れて、社会問題を扱った本を読んでいると、Twitterでさまざまなことを喚いている人々は瞬間湯沸かし器のように感情的に物事に反応しているだけで、そこを深く掘り下げようとする人間が一体どれほどいるのだろうと思う。

 

今私は無縁社会や社会的視点から観た結婚制度に関心があって本を読んでいるけれど、少なくともTwitterで文字を費やして机上の空論をまくしたてるよりはよほど建設的だと思う。

 やはり肝になるのは血縁・地縁の希薄化で、以下、山田昌弘『結婚不要社会』から引用する。

前近代社会には、生涯にわたって自分の「居場所」がありました。あったというより、縛られていたと表現したほうがいいかもしれません。居場所がある前近代社会では、自分が何者であるかという問いは意味がなく、自分の友人や知人が比較的自然に与えられます。

それが近代になると、「人生の意味」を自分で見つけなければいけない社会になります。人間関係的に言えば、自分を承認してくれる相手を独自の力で見つけなければいけなくなり、孤立するリスクも引き受けなければいけない社会になったのです。

こうした生活上の不安や心理的な不安、人間関係の不安を解決する手段として、「近代家族」というものが出現したわけです。

(…)

前近代社会では伝統的宗教やコミュニティなどが、自分の将来にわたる存在意義や人生の意味、つまりアイデンティティを保証していたのですが、近代社会ではコミュニティが衰退することによって、アイデンティティが自動的には保証されない社会になったのです。

 

前近代社会は結婚しなくてもイエや宗教、コミュニティなどで、経済的な安定と心理的な保証を得る場がありました。独身であってもイエのきょうだいが面倒を観たり、お寺や修道院に入ることもできました。

(…)しかし、近代社会は結婚しないと非常に困る社会になりました。つまり結婚しない人が生きにくい社会が近代社会でもあったのです。

 

近代社会においては、生活の安定と親密性に関して、家族に代わり得るものはないということです。

(…)「個人にとって」という視点から見てみると、結婚に経済的共同体であると同時に心理的共同体であるという二つの要素が含まれていることが、近代的結婚における課題になるのです。

──山田昌弘『結婚不要社会』朝日新聞出版、2019年。

 結局のところこの近代的結婚の持つ性質は未だに克服されていないし、どんなに世の中が変わって、家族の形が変わったとしても、家族という共同体の持つアイデンティティを保証する側面は変わり得ないのだろうと思う。

結局のところパターナリズム的社会が崩壊したとしても、家族に代わる新たな共同体、それもこの著者の云うところの経済的側面と、心理的側面を保証してくれるコミュニティが生まれない限りは、できるだけ家族と密接な関係を築いておくに越したことはないということになる。

 

上に書いた問題で云えば、SNS上で日夜交わされる論戦は至ってどうでも良く、家族にや自分自身に深く関わる問題以外は反応しないのが精神衛生上良いということになる。

私自身、このコロナ禍でさまざまな言説に触れてきたし、それらに著しく疲弊することも多いけれど、結局のところ家族という枠組みを信頼していればさほど振り回されることもないのだろうと思う。

結局のところ個人主義が行き過ぎてしまって自己が肥大化し、社会と自己との線引きをうまくできない人間が日夜喧しく喚いているというのがSNSであって、そこから一歩引いたところに立って、家族を大切にするというのが健全なあり方なのだろう。

実際のところ日本のようにまで血縁関係が希薄化していない諸外国、特にアジア諸国においては家族以外は信頼しないというスタンスが根強く残っていると聞く。

それもまたひとつの智慧であって、むろん家族に縛られることのつらさはつきまとうけれど、かといってそこを完全に断ったところで、人間はひとりでは生きてはいけない。

血縁関係を重んじない社会の病理は菅野久美子『家族遺棄社会』を読んでいてもひしひしと伝わってきたし、私は今後とも家族を大切にしながら生きていきたい。