帰省2日目の夜を迎えている。
コロナ禍ということもあり、また今回は療養が目的の帰省なので、今のところ観光は全くしていない。東京から来た人間はどんな理由であれ歓迎しない、という街の空気を肌身に感じる。
地元の放送局も、観光産業が打撃を受けているという知らせを報じる一方で、やはり他所者はお断りだという空気を醸し出している。
生まれ育った場所なので、保守的な土地柄だということは十二分に分かっている。
それは致し方のないことだし、療養が目的でなければ私も帰省を考えはしなかった。
ただいかんせん毎日ひどい鬱状態に苛まれており、食事を取ることもままならないので、東京で療養するのが難しく、今回帰省せざるを得なかった。
帰省先ではお茶を楽しんだり、花や植物を愛でたりして過ごしている。
懸念していた体調は比較的良好だ。
ひとりの時間も、母が用事で外出している間は作れるし、家事を手伝いながらこうして記事を書いたり、買い出しに一緒に出かけたりして過ごしている。
元々そうしたケの日々の方が性に合っているので、少しも苦痛はない。
私自身主婦になって、20代の頃のようなバイタリティはもはやないのだということをあらためて感じるけれど、そうした変化も受け入れるしかないのだと思う。
ケの日々を愛せるという点で、私は専業主婦には向いているのだろうなと思う。
家事の手伝いをしているとさまざまなことに気づくし、それを帰京して幾らかでも役立てられればいいなと願っている。
体調が良好な理由はひとつしかない。
母というマシンガンのようにしゃべり続ける人がリビングにいて、話し相手には事欠かないのだ。
東京の自宅ではそれぞれの部屋に籠りきりになり、夕食の時にしか話さないということがほぼ一年中続く。
主人はその方が気楽だそうなのだけれど、私は話し相手がいないとメンタルがずんずん沈むのかもしれない。
IFと話しても病む一方だし、かといって友人たちは働いていて日中は話せない。
そういう点で母のいうように、短歌結社に入るというのは一つの手なのかもしれない。
人付き合いは元々下手極まりない人間なので、おおよそまともに人付き合いができるとも思えないのだけれど、少なくともこの現状を変えない限り、私はずっと鬱のままなのだろう。
話し相手が欲しいのならSNSでもいいのかもしれないけれど、あいにくとTwitterは好きになれずに、今はリア垢のみの運用としているし、本当の意味で心を通じ合える人たちはそう多くはない。
新たな出会いを求めて一歩を踏み出さないと、何も変わらないままになってしまう。
そういう意味で結社に入ることは一つのはずみになるのだと信じたい。
それから先日主人と話して、個人的にKDPとして出版したい、新たなエッセイ本の企画を立てた。
既刊の『図書館という希望』を思ったよりも多くの方々に手に取っていただけたことが何よりの励みになった。今後ともよろしくお願いいたします。
図書館という希望 宣伝
ブログ「広寒宮」で綴ってきた図書館にまつわるエッセイに書き下ろしを加えた、図書館エッセイ集です。
「もうひとつの家」としての図書館との付き合い方や、蔵書にまつわること、一利用者から見たコロナ禍の図書館の記録、幼少期に通った図書館との思い出など、今だから読みたい内容をぎゅっとまとめました。
本書が図書館を愛するすべての人の友となりうることを心から願っています。
-収録作品-
図書館という希望
ふたつの棚
図書館という友人
ふたたび図書館へ一
図書館の使い方を模索する
コロナ禍の図書館について
蔵書の整理
ふたたび図書館へ二
先達の目とBANANA FISHにみる図書館の精神
図書館という知の海に漕ぎ出す
図書館で知を拓く
学校の図書室の思い出
非常事態宣言下の図書館
本書に登場した書物
『絶望名言』にインスパイアされた、私が鬱で苦しんでいる時に心の支えになった本の紹介をする書評エッセイだ。
まだ原稿は白紙状態なので、帰京したら着手するつもりでいる。
とにかく新たな目標を掲げないと、なんだかこのまま足踏みしてしまう気がしている。
小説が書けなくなって一年、まだ答えは出ないけれど、それでもなんとか足掻きつづけるうちに見えてくるものもあるのかもしれない。
詩歌に関しても、例えば詩歌関連の本を100冊読むなどの具体的な数字に落とし込んだ目標が欲しい。
とにかく読むのも書くのもせいぜい頑張れるときに頑張っておかないと、これからの10年が本当の勝負になるだろう。
できるだけ書く方も読む方も量をこなして、さらなる上達を目指したい。
まだ小説の道に未練はあるけれど、それでも昨日書いたように、このタイミングで結社への入会の目処がついたのも、一つの運命なのかもしれない。
自分の信じる道を進むことは難しいけれど、それでもなんとか前進していきたい。