義母さまに乳がんが見つかり、そのご快復を祈願して、出身地長崎の八坂神社と清水寺にお詣りしてきた。
帰りに義母さまにお送りするための病気平癒の御守りと、私自身のお土産にと、美容に効果があるという櫻姫美人稲荷社の櫻姫守を拝領した。
今日は病気平癒の御守りに添えるための手紙を書き、来週中にお送りしようと考えている。
詳しいことはこちらのブログに書いたので、重複は避ける。
ただ、誰かが自分のために祈ってくれるということだけで、人は少なからず力を得ることができるのだと私は信じている。
たとえ私のために祈る人はいなくても、私は人のために祈りたい。
ふるさとのこと、両親のこと、そして祖父母のこと。
東京にいて絶えず故郷を思い、神棚に祈ってきた私にとって、人のために祈る時間は自分の心をも清めてくれている。
そうした祈りのひとときが私の心を支えてくれているのは間違いない。
月経期間中はお詣りすることを避けているのだけれど、そうでない時には欠かさず毎日祈ってきた。
たとえ遠く離れていても、あるいは実母との関係がなかなかうまくいかないという現実があっても、祈りの力はその葛藤を超えて、私の心をやさしく癒してくれた。
他者のためへの祈りが、ひいては自分自身への祈りにつながることを、私は日々実感してきたのだった。
祈りの力は無力ではないということを教えてくれたのは、聖心女子大の鈴木秀子シスターの存在だった。
元々NHKの「明日も晴れ! 人生レシピ」という番組で取り上げられていたのをきっかけに、この『「聖なるあきらめ」が人を成熟させる』という本を手に取って読んだった。
シスターが絶望の淵にある人に「あなたのために祈ります」という言葉をかけたことで、その人は心を支えられたというエピソードが番組内で紹介されていて、いたく心に響いた。
元々私の家はカトリックではないのだけれど、高校大学とミッションスクールを出て、カトリックも自分のルーツの一つだと思っている。
カトリックの道を何度か選びそうになり、その度に周囲から反対されて、今は神道を奉じているけれど、いずれまたカトリックの道へと誘われることもあるのかもしれない。
ただ、今は故郷を想う気持ちが強まっているので、しばらくは神道一筋で生きようと思っているけれど、祈りというものは宗派を超えた価値を持つと改めて身に染みて感じる。
できれば帰省中に大浦天守堂も訪ねたいと思っているのだけれど、メンタル上の体調が著しく悪いので、叶うかどうか分からない。
それでも自分のルーツとしてのカトリックの価値は変わらずに輝きつづけるし、鈴木秀子シスターや、渡辺和子シスターの本を読んできたことを今一度見つめ直して、この困難な時を乗り越える心の支えとしたい。
自分の力だけではどうしようもない、困難な時期を迎えて、きっとこの先も両親や義両親の健康にまつわる問題はついてくるから、そうした時に自分を静かに支えてくれるものは大事にしたい。
たとえ宗派が違ったとしても、祈りの本質はおそらく一つなのだと思っている。
この祈りの街長崎から祈ること。東京からこの地に向けて祈ること。
双方を行うことで、地理的に遠く離れていても、近しい人たちや、ふるさとに想いを寄せていたい。