それから主人に誘われて、パスタ屋さんでディナーセットをいただいた。
主人が謝ってくれて、私も同じく謝った。今回の件で、自分の人間としての未熟さを厭というほど思い知った。
人を許せないという思いに囚われて、自分自身も他者も苦しめてしまったことを深く恥じている。
本来の私はそうではないはずなのに、視野が極端に狭くなってしまっていたことに気づいた。
主人はどんな時でもそばにいてくれたのに、私は死にたいという気持ちが募るあまり、そんなことすらも疑ってしまっていたのだ。なんとも情けなく、申し訳ないことだと思う。
胃腸の調子が不安な中なので、牡蠣のパスタを選んでいいものか迷ったのだけれど、そう入っても無類の魚介好きなので誘惑に抗えずにいただいた。
ディナーの間、遠藤周作の『影に対して』の話をした。
信仰を通じて人間の弱さを描くということは、真の信仰生活を送った人間にしかなし得ないことなのだろうと私が云うと、「キリスト最高、じゃ小説にならないからね」と主人が云う。
あくまでも人間の苦悩に深く根ざしていくことでしか小説は書けないし、あるいは日記が文学たり得るには、その苦悩を深く掘り下げていくことでしか成り立たないのだろうと思う。
その後カトリックとプロテスタントの違いについての話になり、プロテスタントの聖書主義とマリア信仰の否定について語った。
話しているうちに私にとってやはりカトリックは一つのルーツではあるけれど、やはり遠いものだということを改めて感じて、無性に悲しくなった。
ミッションスクールに通った学生時代、どうしてもカトリックに馴染めずに、聖堂の最前列に並ぶ信者の女学生たちのベールを纏った姿が美しかったのを、美しいと思うとともに、その輪についに入れない自分を強く意識してしまい、やりきれなくなったのを痛いほどに思い出す。
それでもカトリックの精神は私の基軸の一つを成していることに変わりはない。
またいずれ傾倒する時期が巡ってくることは目に見えているし、実際のところこの困難な状況にあって、真に自分を救ってくれるものは、ただ一神教の神だけなのかもしれないとも思う。
主人は両方信じればいいじゃない、改宗するわけでもないんだし、と云うのだけれど。
ふたたびカトリックの門を叩きたいという気持ちが全くないわけではない。
ルーツの一つとして今後とも重んじていきたいし、聖像が恋しくなることもある。
ただひとたび飾ってしまえば誘惑から逃れられなくなってしまうから思いとどまっている。
今こうして様々な困難に直面する中で、自分自身の心のあり方の手本となるものが欲しいという思いは日増しに強くなっている。
聖像はふたたび置くかどうかわからないけれど、それでも本はふたたび手に取って読みたい。
片柳神父の本や、渡辺和子シスター、鈴木秀子シスターの本は改めて読み返したい。
それから仮面ライダーオーズの続きをhuluで観ながら、ダージリン1stフラッシュとカステラでお茶をした。
困難に直面した時にこそ人間の真価が問われるのだとしたら、今がその時なのかもしれない。
人間としてより良く生きるために、時にはカトリックというルーツに立ち返って、学びを深めていくのもいいことなのだろう。
さっそく本を読もうと思う。