ANIRON

ひとりごと日記

2021.11.20 #2 絶望の傍にありたい

どうにも気持ちが定まらない。

楽しいことをしていても、結局のところ苦しみから目を背けて、嫌なものに蓋をしているだけで、一時的な逃避に過ぎないのではないかと思ってしまう。

それでも主人が誘ってくれることに関しては積極的に乗るのだけれど、乗った後に著しく消耗する。

うつ病に気晴らしは向かないというセオリー通りの様相を呈していて、かといって楽しいことでも見つけておかなければ、たちまち希死念慮の沼に足を取られる。

この日は朝からPC/PD診断の写真をカラクルさんに送って、それからしばらくぐったりしていた。結果についてはまた別途こちらのブログに書くつもりでいる。

snowrabbit21.hatenablog.jp

主人に埋められない寂しさを埋めてほしいと思ってしまうのだけれども、それも単なる依存だし、自分自身ももっとしっかりしなければならないと思う。

 

とはいえどうにも弱った心を埋めるすべがない。本を読んでも、ドラマを観ても、ゲームをプレイしても一時的には楽しい気分になるけれど、その後に暗いうつの波が押し寄せてくる。

うつと真正面から対峙しようとしすぎているのかもしれないし、たとえ一秒であっても気晴らしができるものがあるのなら、それに越したことはないのかもしれない。

とはいえ、埋められない気持ちはどうやっても埋めようがない。

虚しさをじっと見つめることしかできない毎日を、一日一日何とか生き延びて、詩を書いて、ようやく今日生きている。

そうした無為な時間をただただ浪費することに意味はないのかもしれないけれど、それでも虚無から生まれてくるものが全くないとは云い切れないのではないか。

 

赤尾兜子はうつを患って自死したけれど、名句の数々を後世に残した。

アンナ・カヴァンは悲痛な叫びを小説という形にして悲惨な死を遂げた。そうして自死を選ぶことすらできずに生きながらえている私には、少なくとも時間はいくらか残されているはずだ。

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これからの十年をどうやって生きるべきなのか、自らに問うとき、やはり一度敗れた小説の道を再び歩くことはできないだろうなと思う。20代の頃ならばいざ知らず、30代の私は完全に弱りきっていて、無能を力で押し切るだけの気力さえない。

人のせいにすることは容易いけれど、私はそうしたいわけではない。某所を通じて自分の無力さを厭というほど思い知ったし、小説で戦いを挑むにはあまりに無謀だろうと思う。

ならば一つの芸を磨いて磨きつづけるしかない。

短歌も再び詠みたいけれど、今は詩に専念して励みたい。もっとより良い、もっとより高い表現を求めている。他には何もいらない。

私はこのブログを通じて、心身ともに弱り果てている人々の友となれればいいと願ってきた。その願いのいくばくかが届いているのならいいのだが、そうでないにしても、これからも生ある限りは創作を通じて、そうした人々の傍に寄り添いつづける作品を書きたいと思う。