ANIRON

ひとりごと日記

2021.12.02 迷い続ける弱さと、アジールとしての信仰

リスパダール離脱症状が続いているのか、意欲が著しく落ちていて、何もする気になれない。創作も読書も手につかないまま時間ばかりが過ぎる。普段は四六時中聴いている音楽も聴く気になれないし、全体的に停滞している。

刺激を与えればいいのかと思ってテレビをつけたり、ダイパリメイクをプレイしてみたりしたのだけれど、何を摂取しても面白いと思えなくてかえって消耗してしまう。肉体的には幾らか動けるようになってきたけれど、精神的には廃人同然だ。

元々リスパダールは長らく飲んでいた時期があり、その頃は今よりも元気だったから、服用しても問題ないと思っていたのだけれど、大きな間違いだった。医師から処方される薬がことごとく合わない。

意欲の著しい低下と好奇心の減退には、うつ症状そのものが悪化している可能性もあるのだろう。医師がなかなかそのように認めてくれない人なので、これも自己判断せねばならないのが何とも気が重い。うつと診断したのは医師なのだけど。

ここのところ精神的な影響が大きくて、ストレス発散の買い物もできずにいる。

私は買い物依存症の節があって、それでなんとか精神のバランスを保ってきた側面がある。しかし買うかどうかで迷いすぎているうちに意欲が喪失してしまうので、結局買いたいと思っていたものも買えずにいる。

そうしてこれまでできていたことができないとなると、ストレスが募ってゆく一方だ。

切実にストレスの吐け口を求めているのだけれど、結局のところ寂しいのだと思う。

とはいえ人と話すと何かと精神的な負担が増えてしまうため、昼間にIFと久しぶりに話した。

IFがいなかったら私はとっくに死を選んでいただろうし、ギリギリの状態を何度も助けてもらった。私にとっては主人の次に大切な存在だ。そのIFと対話する時間をあまりにも蔑ろにしすぎたし、自分自身に目を向けることをやめた反動が今やってきているのかもしれない。

自分の内面と対話することは果てのない闇の中をひたすら歩き回るのに似ていて、ともすれば足を取られそうになる。その闇と対峙することから離れようとしてきて、結果的にうまくいかなかったというのが今回の結果なのかもしれない。

闇と対峙することで病がより篤くなっていた側面は確かにあったと思う。それでも逃げ続けると足元を掬われるのだなと思い至った。

このように生来内省的な人間はもっと哲学や思想などの本を読んだ方がいいのだろう。

思想で興味があるのはシモーヌ・ヴェイユで、一時期少々齧っていた時期があったけれど、カトリックから再び距離を置いたことで離れてしまった。

厳密にカトリックという信仰を突き詰めていこうという姿勢に息苦しさを感じて、その実践は到底不可能なように思われてならなかったのだ。しかし宗教を超えた普遍性もきっと併せ持っているのだろうと思う。だからこそ今の時代まで読み継がれてきたのだろう。

もう一度扉を叩くことで見えてくるものもあるのかもしれない。

ヴェイユに関してはまず原典に当たるのではなく、できれば参考になる文献も探して読みたい。

原典に当たることはもちろん大事だけども、思想に関してはずぶの素人なので、その意味を取りかねる場面も多かったのだ。

補助線を引くことでわかることもあるだろうし、まずは素直に専門家の読み解き方を学びたいと思う。

カトリックに再び近づくかどうかは、現時点ではわからない。保守というアイデンティティを保っていては、私は生きてはいけないことは明らかなので、一旦ここで神道から少し距離を置きたいという思いもある。

それは思想的な問題というよりも、もっと卑近な実家や義実家との関わりという点において、私が大きな挫折を経験したからに他ならず、思想を全うできない以上は奉じていても仕方がないという投げやりな思いを抱くに至った。

その思想的空白が私を虚無状態に陥らせているという側面は多分にあるので、これをカトリックを以ってして埋めるという手はあるけれど、カトリックもまた保守主義と不可分な関係にあり、信仰というものはそう単純なものではない。

ただし今の私の状態は非常時で、その非常時に心を埋めるものは持っておいていいのかもしれない。それがカトリックというものであるのなら、一時的にであれ救いを求めたい。

その定まらない信仰のあり方が私の生き方に他ならないのであれば、純然たる信仰者から非難はされて然るべきだとは思うけれど、それでもそうして生きていくしかないのだろう。