前回の記事を書いてからつくづく生きるのが嫌になり、恥を忍んで平光源『あなたが死にたいのは、死ぬほど頑張って生きているから』を電書で買って読むことにした。
読んでいて半ばわかっていたことではあったけれど、ぐうの音も出なかったのが「死にたいという気持ちの裏には父親/母親に認められたいという思いがあるから」という箇所だった。
私は小説を書くことで、あるいはプロの作家を目指すことで、実母と近しい人に認めてもらわねばならないというプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。母も近しい人も度々私に「作家になりなさい」という圧をかけつづけてきた。
医師はその私の様子を全て聞き出した上で小説を書くことにドクターストップをかけた。
それからはひたすら消耗して、小説を書かねばと思えば思うほど沼に足を取られて一歩も動けなくなってしまった。
しかし私は本当に小説を書いていたかったのだろうか? 惣流・アスカ・ラングレーにとってエヴァに乗ることが承認欲求を満たすために絶対に必要な行為であったのと同様に、私は小説で同じことをしようとしていただけで、本当は小説なんて全く書きたくなかったのではないか。
著者は「一度死んでみたつもりになって、それからやりたいことを見つければいい」と本の中で説いている。
私は完全に死ぬ間際になって、絶対に小説家になれなかったことを悔やむだろうと思ってきた。しかし心身ともにボロボロになって、それでもなお小説を書きたいのだろうか?
今はまだ答えが出ない。小説は物心ついた時から書いてきたし、書くことから離れてしまったら、私は私ではいられない。ただそれが小説である必要はあるのか? ますますわからない。
私は構造主義的な小説を書くことに対して強い抵抗感を感じてきたし、その感情を蔑ろにした結果が今に至っている状況なのではないか。
構造主義を前提としなければ商業作品としてはまずダメになるのは目に見えているから、それをおざなりにしていいとは書くつもりはない。
ただ私はそうした形で自分の外側にある設計図を組み立てるようにして小説を書きたいとは思わない。たとえ商業ベースに乗らなくても、自分の書きたい小説を書くことが第一で、他に必要なものなんて何もないのかもしれない。
とはいえまだ構造主義の呪縛から離れられない。特撮を観てもアニメを観ても、ひたすら物語の構造を解体して捉えようとしてしまう。物語を分析的に読み解く上では必須スキルだから、それはそれでいいのだけれど、私がやりたいことはそうではないのかもしれない。
小説の構造をまるで無視した小説というのは極々趣味的なものになってしまうし、何度も書くように商業的な成功とは無縁なところにあることを自覚しなければならない。そしてその脱構造主義的な小説を書いて商業ベースに載せられるだけの才能が自分にあるとも思えないから、やはり構造主義に落ち着かざるを得ないこともわかっている。
だから小説から一旦離れたいという想いもあった。より自分の必然的で根源的なものに迫っていくのに、小説の構造はあまりにも邪魔だった。自分の内面に迫っていくのに必要なものは詩を置いて他になかった。だから詩を書きつづけているのかもしれない。
念のためココア共和国で三ヶ月連続で佳作として採っていただいたことを報告したところ、母からは「あなたの書く詩は好きじゃない」と云われた。気持ちが悪いのだそうだ。知るか、そんなもの。私は母のために詩を書いているわけではない。
いわば詩を書くことは、私にとって母との決別を意味しているのだった。小説とは違って、詩はただ私自身と読者のためのものだ。他には何もない。詩はどこまでも自由だ。ただ詩としてある限り。
もうしばらくは小説を書くことから離れてみて、そうして気が済んだら戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。
とにかく今は詩を書いていたいし、ここのところ筆が鈍っているから、また詩を通じて歌えるように、自分の創作の源としっかり向き合いたい。