昨日の日記が創作部門のトピックに入っていたようです。
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ここ数日著しい意欲の低下に見舞われているということはすでに書いた。
音楽を聴く気にすらなれないというのが自分でも不思議でならない。どんなに参っている時でも、本を読めない時も、音楽は常に私の傍に寄り添ってくれていた。
詩に関しても同じで、どんなに不調な時にでも書けたのに、ここ数日は全く書けない。
何の意欲も湧いてこなくて目に見えて消耗している。
このままではいけないと思えば思うほど沼に足を取られる。
自ら望んで受けたくもないのに自分自身に刺激を与えようとしてきたことがかえって逆効果になっているのだろうか。よくわからない。
思い返せばここ数日は元気を出すための音楽ばかり聴いていたから、音楽が私の傍に寄り添ってくれないことに不満を抱いていたのかもしれない。
音楽に依存するという依存症があるのかどうかはよく分からないけれど、少なくとも私は音楽に多くの部分を依存しながら生きてきたのだなと思い知らされる。
すっかり消耗しているので、先日から読んでいる本『あなたが死にたいのは、死ぬほど頑張って生きているから』の一節を思い起こすことにする。
本書では自分の黄金時代と今の自分とを比べてはいけないと書かれていた。
私にとって良かったと思える時代はコロナ禍前の大学生時代のことで、当時は主人と交際関係にあって、度々あちこちの美術館に足を運んだり、神保町で好きなだけ本を眺めたりして過ごした。
友人も少ないながらも今よりはいたし、交わす会話の内容も本にまつわることばかりで充実していたし、仄暗い青春ながらも今から思えば輝いていた。
しかし当時に戻ることはもうどうしてもできない。
コロナ禍という現実や、私自身の著しい体調の悪化もあり、友人と会うことも難しくなってしまっているし、一人きりで都心に行くことはもはや叶わない。観たい展示があっても、持病があって電車に乗ることができないので足を運べない。
しかしできないことが増えていく中で、洗練されてきたものもたしかにあるのかもしれない。
それは渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』で書かれていたことでもある。老いは人間をより洗練させるのだとシスターは説いていた。
私はまだ30代に入ったばかりだけれど、持病でできていたことができなくなり、その理不尽さに打ちのめされそうになっていた。
18歳からメンタルの病を抱えて、病気を受け入れたつもりでいたけれど、それでもなぜこんな状況に置かれなければならないのだろうという不満はずっとくすぶり続けている。
しかし小説を書くことや、一人で外出することをはじめとして、自分にとって失うものがあまりに多かった一方で、残ったものもある。それは詩を書くことや、ブログを書くことで、今はその最低限度な「書く」という行為が自分自身を支えている。
今手元に残っているものだけが自分にとって必要なものなのかもしれない。
それは私にとっては耐えがたいことでもあるけれど、同時に病という重圧によって生まれてきた謙虚さにつながっていくのかもしれない。
病気になって良かったとは、私はどうしても思えないし、何度18歳という年齢をやり直せたら良かっただろうと思ったかわからない。
それでも病を、そして今の情けない自分を受け入れることを選んだ先に、きっと光があると信じたい。