ANIRON

ひとりごと日記

2021.12.05 塚本邦雄を読む

朝から不調で、主人に公園に紅葉を観に行かないかと誘われていたのだけれど、横にならねばならないほど体調が悪く、やむなく断念した。

それからしばらく薬を飲んで横になってじっとしていたのだけれど、ようやく持ち直してきたので主人と買い物に出かけた。

詳細はまた別途こちらのブログに書きたい。

snowrabbit21.hatenablog.jp

 

それから主人が買ってきてくれていた焼きプリンとともに、ルピシアのキャラメレをいただいた。

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そしてしばらく主人が眠っている間に、ブログを書こうとしたのだが、どうにも消耗しているのか思うように書けない。

もどかしさを感じている間に、主人は仲間と漢文読書会をオンラインではじめたようで、時折ころころと主人が笑う声が聞こえてきて、楽しんでいる様子にほっとしつつ、自分は何をやっているのだろうと思ってしまう。

小説講座から抜けて、詩歌サークルも抜けて、友人は数えるばかりで、医師からも人付き合いは今は避けた方がいいと云われる始末だ。

どうにも自分は嫌な人間だという思いが頭から離れず、だから人付き合いができないのだと思ってしまう。どこにいても角を立てるし、生来短気なのでうまく人と関われない。

主宰している二つのサークルは問題なく運営できているし、昨日も歌会を催して、成功を収めたというのに、どうしても暗い方に考えが転がっていってしまう。

aniron.hatenablog.com

よろしくないなと思って、かねてから読んでいる塚本邦雄『定家百首・雪月花』の続きを読んだ。

春の夜の夢のうきはしとだえして嶺に別るるよこぐものそら

の歌に対して

虚で始まり虚で終るいはば聖なるいつはりの世界である。そして眞とは、その虚妄の中にひらく華の謂れであることを定家は証したに過ぎない。事実ではあるが心の具象などといふ及び腰の理解では、雲より先に歌そのものが読者を見捨てて離れてゆくだらう。事実がそれほど重ければ、定家の夢の内容をフロイトの末裔に分析させた方がよほど有益であり、同時に参考にもなつたらう。

──塚本邦雄『定家百首・雪月花(抄)』講談社、2006年、p101

※変換上の都合で旧字は新字に改めた。

と評している。

これに関して少し考えをまとめておきたい。

 

写実と仮想という二つの問題は短歌・和歌にとって重要なテーマであり、塚本も、そして定家もまた仮想を重んじる作風の歌人だが、私個人としては仮想から写実へと転換を図ってきた中で、素人が虚だけを描こうとするのは危ういことだと思い至った。

仮想を歌の主体とするにも、定家や塚本レベルの技巧があって初めて成り立つことで、技巧なき仮想はただの様式美の劣化に過ぎない。

私自身がそのようにして歌を詠んできたから、その反省に立っているのであって、他の歌人をどうこう評するつもりはないけれど、たとえ写実に則ろうとしても自ずとこれまで奉じてきた仮想は入り混じってくるという経験を何度もしてきた。

 

佐藤弓生は歌集『モーヴ色のあめふる』の中で次のように書いている。

これまでにいただいた「幻想的」という評言は、この歌集にも当てはまりそうです。幻想は“本当のこと”の種なしには生まれません。「ただロマンチシズムとリアリズムとは、主観の発想に関するところの、表現の様式が違ふのである」と萩原朔太郎は述べています。表象はどうであれ、詩歌は心の真実のためにあると考えます。

──佐藤弓生『モーヴ色のあめふる』書肆侃々房、2015年、p156

私が拠りたいのもこの佐藤弓生ないし萩原朔太郎の立場であって、素人が塚本邦雄の歌風を表面的に真似ようとしても、劣化コピーで終わってしまうのだ。

ならば写生に拠る方が私のような素人芸の作歌方法としてはより妥当なのだろうと思う。

仮想はいくらでも後からついてくるし、完全に写実だけの短歌というものは、少なくとも私の低い技術では貫徹できるものではない。

 

この本は塚本邦雄の「作品」であり、定家の歌を彼の評というフィルターを通して読んでいるということは弁えておきたいということは以前にも書いた。

こうして読んでみると、これは評には止まらず、塚本邦雄というひとりの巨きな歌人の歌論であり創作論であるのだと思い知る。

かつて読むことは書くことに等しいと誰かが云っていたけれど、まさに塚本邦雄は評を通して短歌を作ることへの姿勢のあり方を強く説いているのだと感じる。

私は彼の姿勢から少し距離を取っておきたいと今は思っているので、むやみやらたらに礼賛することは避けておく。

長くなったので、続きはまた別途書きたい。