ANIRON

ひとりごと日記

2021.12.06 世界とシェイクハンドしていたい

今日も今日とて体調が悪い。

昨年の一人きりのおこもりアカウントのツイートを遡ったら、延々と体調の愚痴が書かれていて、結局のところ毎年、毎月、毎日体調不良に苛まれていて、昔の私も、今の私も同じようにつらいのだと思った。

しかし不思議なことに去年の私がつらいと書いていることで、私は過去の自分自身を半ば他者としてシンパシーを感じたし、「そうだよね、つらいよね」と思うことでいくらか心がなぐさめられた。

実のところ、この日記もまたそういう効果を求めて書いている節があり、私自身だけでなく、メンタルに持病を抱える人の何らかの避難場所になれば良いなと願っている。

直接助けることはできないし、悩みを聞くこともできないけれど、少しでも共感を感じてもらえれば嬉しい。

それが私にとって「世界とシェイクハンドする」ことで、見えない他者とこの場を通じてつながっていると私は信じているし、この日記という場があるからなんとか私自身も生きていられている。

自分の局所的な悩みを書きながらも、その手は世界に向けて差し伸べられるようにしていたい。自分の中に留まるのではなく、他者に対して開かれていたいと願う。

 

世の中の書物というものはそうして書かれており、私もまた書物を紐解くことで、時間や空間を超えて著者とつながることができる。それは読書という行為にとって、最も根本的で、そして最も重要なことなのではないかと思っている。

自己の中で完結してしまわないということは、小説を書くにあたっても、あるいは詩を書くに際しても重要なことで、私自身は小説ではそのことに失敗して書けなくなってしまった。あまりにも自己の世界というものにこだわるあまり、世界とシェイクハンドできなくなっていった。

詩を書いている時には硬く閉ざされた自己の中に留まっているけれど、詩として着地した瞬間、他者に向かって手を伸べる腕を幻視することが多々ある。

アンナ・カヴァンが悲痛な叫びを小説にしたように、私はその叫びを詩として書いてきた。しかしそれは叫びであると同時に、他者を抱擁する腕でもあるのだ。

その腕をこれからもはっきりと意識していたいと願っている。

先日、ココア共和国に関して、さまざまなやりとりがTwitter上であり、あまりそのことに踏み込んで個人的な見解を書くことは差し控えるけれど、私にとって詩とは単なるセラピーではなく、世界と手をつなぐために必要なものだとここに記しておく。

単なるメンヘラの独りよがりだというのなら、その時点で詩として成立するはずもないし、そもそもココア共和国に採られもしなかっただろうと思う。

そこに選者という他者の目があり、あるいは読者という大勢の目があって初めて、詩は雑誌に掲載されるし読まれることになる。だから発端となった人のツイートはそもそも文学というものの本質を捉えられてはいないのだ。

芥川龍之介太宰治はメンヘラだよね、というレベルの理解に止まっていると云わざるを得ない。

メンヘラだろうが健常者だろうが、文学を通じて他者とつながろうと志す人間は、皆平等だし、どちらがより優れているとか劣っているとか、セラピーだとか自己満足だとか論じること自体そもそも無益であって、文学は誰もに開かれているという前提に立たなければ、偏った見方に陥ってしまう。

それが文学の最も素晴らしい性質であり、また大前提として担っている役目なのだと私は考える。

 

幼少期、両親に理解がなく、家に本を置いてもらえなかった私は、さまざまな図書館へ通い詰めて本を読んできた。

家の中にたくさんの本があって、幼少期からそれらを貪るようにして読んできたという人とは全く違う環境にありながらも、それでも一日一冊ペースで本を読み、限度いっぱいまで図書館を借りて読み耽った。

そうした経験が、本や、ひいては文学が等しく全ての人間に対して開かれているという考えに至る素地を作ったのだろうと思う。

図書館という場所が私を育み、そして文学観を培ってくれたのだと思うと、感謝してもしきれない。

BANANA FISHに出てくるニューヨーク市立図書館の理念がそうであるように、図書館は万人に対して開かれている。それはすなわち文学そのものが全ての人に対してシェイクハンドを求めているという証左に他ならないのだと私は信じる。