ANIRON

ひとりごと日記

2021.12.12 大手拓次を読む

この週末は二日とも出かけて、心身ともに休まる間がなかった。

友人に「インドアだね」と評されたけれど、実際のところ私は完全にインドア派で、都心にも興味がないし、出かけることにも全く関心がない。

コロナ禍になって、画廊や美術館に行けないという点を除いては、私にとってはさして困ったことにはならず、病院も電話受診できるようになったし、生来全ての乗り物が怖いと感じる人間なので、電車に乗らずに済むというだけでありがたい。

そういうわけで出かけたことに関してはまた別途こちらに記事を書いたけれども、この日記では帰ってきてからのこと、主に読書について触れたい。

snowrabbit21.hatenablog.jp

 

帰宅してしばらくの間ぼーっとしていたのだけれど、もうすぐ『大手拓次詩集』を読み終えるというところまで来ているので、重い腰を上げて読んだ。

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一目彼の詩を読んで、その精神が深い悲しみに根差しながらも、信仰という美を求めて詩として昇華されていることがわかった。
それは私自身の詩作の態度と相通じるものがあるからで、彼の志した象徴詩のあり方というものは、信仰の告白に他ならなかったのだと思う。
そう感じながら、匂い立つような詩や、肉体に根を張った官能的な詩の数々を読み終えると、詩論に次のような一節があった。
“詩とは何であるか。真である。神である”
“詩はそれ自らが信仰である。
信仰は生の面影の花である。
真理は信仰あって初めて生きる。
神は宇宙の霊である。
詩は神に赴く巡礼の鳥の心(heart)であり、宗教はその翅である。”
信仰に深く根差しながら、そして美への昇華を志して詩を書く人間として、拓次の詩は私の心を強く打った。
また解説にある日記の
“積極的の談話はつとめて止むべし。孤独はぼくの生命である。
考へよ、空想せよ、
それはぼくの生命である。寂しき時は慰案(ママ)を内省に求めよ、”
という箇所にも強いシンパシーを感じる。
年の瀬にこのように強く惹かれる詩人と出会えたことが何よりもうれしい。

間違いなく今年のベスト本の中に入る一作だった。

また何より拓次がさまざまな病を抱えながら、詩壇から離れて詩作に励んでいたところなどは、なんとも云いがたい共感を覚えてしまう。

これまで朔太郎の詩に惹かれるところが多くて、朔太郎の作品は網羅的に読んだことは昨日書いた。

しかし拓次の詩は、よりいっそう真に迫って私に差し出された香り高い花のようだと感じる。

色々と感じ入るところがあり、また最近観ている仮面ライダーWの影響もあって、再びアナログノートにメモを書く頻度が増えた。

そのメモの一部がこちらで、拓次が追求した信仰と真の象徴としての詩を、私は冒頭の作品から感じ取っていた。

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表層的な耽美主義には留まらない、深い精神性が彼の詩にはある。

私の志す詩のあり方というものも、まさにこの精神性に根差すものであって、その必然性を有しているということが、私をして詩作に駆り立てるのだろうなと思う。

以前主人に「本とは自分自身との対話なのだ」という言葉をかけられたことがあったけれど、確かに私は拓次の詩を通して自分の詩のあり方を探ろうとしていたのだ。

一方で拓次は散文詩をあまり評価しておらず、彼自身の散文詩もまたどこかぎこちない印象を受けたが、私はよりいっそう自分の散文詩を磨いてゆきたいと思う。

師と仰いだ詩人とはもはや連絡が取れない。その喪失感もまた私を詩に向かわせる一つの原動力となっている。

今後ともさまざまな詩に触れることで、自分の詩のあり方を探し求めてゆきたい。

その一つの答えを、拓次は確かに提示しているのだという強い直感と確信を得た。