ANIRON

ひとりごと日記

2021.12.15 読むことと書くことで長らえる

朝方5時まで眠れずに、それから眠って12時ごろ起きた。

消耗が著しく、何を食べるのか、何を買うのか、全く決められない。

うつが悪化する予兆はあったから、こうなることは半ば分かっていたのだけれど、自分自身ではもはやどうしようもない。

ここのところは調子が悪いながらもなんとか本を読めていたけれど、昨日からつまずきがちになってきた。本を読んでも文字が頭に入ってこなくて目が滑る。何もする気になれないし、家事も滞りがちになってきた。

詩の精度が幾らか上がってきたことだけが寿ぐべきことなのだろう。ココア共和国にはもう投稿してしまったし、他に投稿する場を探してみたいと思いながらも、重い腰を上げられずにいる。

現代詩手帖への投稿は前々から念頭にあり、近々所用のための外出の予定もあるので、できれば実現させたい。

ひとまず月末のココア共和国の結果を待ちたい。今月もおそらく結果は芳しくないのではないかと思っているのだけれど、その判断も自分の持病の悪化に引きずられている節がある。

とにかく今は何も期待したくない。

 

何らやる気が湧いてこないので、このまま不全感と無力感に包まれていてもしょうがないと、吉田隼人『死にたいのに死ねないので本を読む』の続きを読み、「美とは虚無のまたの名」に行き当たった。

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著者が塚本邦雄『定家百首』を読んで、さらに明月記などにも触れたと書かれていて、その自分自身の震災という体験と、塚本の本質に迫る内容に強い衝撃を受けた。

荒廃していく世の中と、あるいはそれ以上に荒廃してしまっているかもしれない自己の内面。時代の暗さと自己の暗さと、二つの闇を抱えたとき、人は堀田善衛のいう「末期の眼」を手にする。その眼に映じるのはあらゆるものの「醜さと隣り合わせの美しさ」であり、そしてそれこそが定家の歌の荒涼たる美にも通じている。

強引なこじつけのようだけれど、人生のどん底に沈みきって、絶望することにもいい加減憔悴しきったぐらいの状態でなくては味わえないような書物とか、読書体験といったものが恐らくは存在するのであって、定家に関するあれこれもまた、そうした読まれ方をするのに相応しい書物なのだと、ぼくはここで無理を承知の上で断言しておく(…)。

──吉田隼人『死にたいのに死ねないので本を読む』草思社、2021年、p167

私もつい先日塚本邦雄の『定家百首・雪月花』を読んだばかりだったので、非常にタイムリーで、そしてこのような受容のあり方がより真に迫って感じられた。

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私はどちらかというと塚本邦雄のフォロワーというわけではないし、写実と仮想という観点から日記を書いたけれども、こうして自己に引き寄せて読むということを久しくしていないかもしれないと思い至った。

無論、前述したようにナラトロジーという観点から見ると、この吉田氏の読み方はごく個人的で私的な領域にとどまっていて、その解凍は読者が手ずから行わねばならないという点において難があるのだけれど、一方でこれは書評ではなく、あくまでもエッセイだと捉えると、縦横無尽に知識を渉猟する面白さと躍動感は十二分に伝わってくる。

ただ私は澁澤龍彦をはじめ、その手の論述家からは一線を置いてきたから、これはあくまでも幻想文学的エッセイであって、それ以上の意味合いを持ちうるかということはもう少し考えたいところではあるのだが。

ラジオ感覚で読むエッセイというものは世に幾らかあるけれど、この本もまたそうした与太話のような魅力を備えていることはたしかだ。

 

ただやはり距離を置いておきたいという気持ちも一方であり、自分自身が構想している書評エッセイ集はこのような形は取らないだろうなということだけは確かに云える。

もう少し腰を据えて読書に励んで、少しでも完成に向けて筆を進められるように励んでいきたい。

実のところこの日記を電子書籍なり同人誌なりにしようかとも思っていたのけれど、3月のPTSD再燃から、12月になって一応収束を見るまで収めるには、あまりにも字数を費やしすぎるという難点があって、断念せざるを得ない。

その代わりにその労力を書評エッセイに費やすこともできるし、あるいは詩集を編むことにも費やしたい。

そうして少しずつ自分にできることとできないことを見極めながら、自分のやりたいことを実現できるように励みたいと思う。