ANIRON

ひとりごと日記

2021.12.17 それでも読む

ふたたび創作トピック入りしていました。

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お読みくださった皆様、評価してくださった皆様、ありがとうございました。

引き続き当ブログをよろしくお願いいたします。

 

今日も今日とて消耗しきった一日だった。

夜は3時まで眠れず、12時に起きてぼーっとニュースを観ていると、大阪の心療内科で火災があったという。

その影響を一日中にわたって引きずってしまった。

やはりしばらくは電話受診での通院を考えたいし、来年転院することも考えているけれど、後ろ倒しにした方がいいのかもしれない。

いずれにせよまだ詳しい犯人像や、動機がわかっていないという点で語れることは少ないし、安易な憶測は避けるべきなのだろう。

しかし、これをきっかけにふたたび精神疾患への差別や偏見が助長されなければいいが、と一患者としては思わずにはいられない。

 

それからしばらくして小説講座から連絡が来たのだけれど、二ヶ月の間も音信不通状態で、さらに待てとの内容だったので、やはり抜けるしかないなと思い至った。

これ以上感情のリソースを割く余力はない。消耗しきった上にさらなる消耗を課せられても困る。

以前、都の主催する相談窓口で相談した際に、自分自身が一番大切にすべき存在なのだということを告げられた。

私が重んじるべきなのは、今は自分自身と、そして主人、さらに数少ない友人たちだけだ。

どんな立場であれ、自分をないがしろにする人に割くリソースはないし、気力を著しく消耗してまで小説講座を受ける道理もない。

今後は引き続き詩作を通じて創作に励みたいし、歌会をモチベーションとして作歌に邁進したい。

今の現状でひとまず生活は滞りなく回っているし、今の私のキャパシティの許容範囲もおそらく詩歌というジャンルの範囲内に留まるのだろうと思う。

そうして起きてから気力を使い果たしたので、彼杵茶を淹れた。

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それからしばらくはまともに動けず、ようやく動けるようになったのは16時ごろで、家事を片づけてから吉田隼人『死にたいのに死ねないので本を読む』を読み終えた。

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書評エッセイ集。著者の独特の語り口は澁澤龍彦を彷彿とさせて、そのいきいきと知識を開陳していくさまが面白い。
中でも「美とは虚無のまたの名」はこの本の中心を占めるエッセイであると感じ、その塚本邦雄へ向ける眼差しの切実さには感じ入るものがあった。
しかしながら全体としてその受容のあり方は衒学に傾いていて、読書の一つのありようを示しているけれども、至って独善的だと言わざるを得ない。自己というものを通じて文学と対峙していくのはいいけれど、その狭いスキームから脱しきれていないため、読者として受容するには解凍作業が必要となってしまう。
他者に開かれた文章を書くことの難しさを改めて思った。

彼の文章を読んでいると、PTSDの再燃の引き金となった男性陣のことなどが頭を掠めて妙に気が立ってしまい、落ち着けるために読書メモの続きを書いた。

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新古今和歌集に関する本を読もうと思っていただけに、今回『死にたいのに死ねないので本を読む』を通じて得た読書体験は、間違いなく糧となるものだったと思い直した。

著者の吉田氏も、塚本邦雄『定家百首』にはじまり、類書をさまざまに読み耽ったという。

それがいつの間にか定家をはじめとする新古今歌人に関心を寄せるようになり、同じ塚本邦雄の『雪月花 絶唱交響』(読売新聞社、のち講談社文芸文庫『定家百首』に一部収録)や『藤原俊成・藤原良経』(筑摩書房)、『清唱千首』(富山房百科文庫)などの評釈本や古典和歌アンソロジーを手始めに、安東次男『藤原定家 拾遺愚草抄出義解』(講談社学術文庫)や久保田淳『藤原定家』(ちくま学芸文庫)といったモノグラフ、それに堀田善衛『定家明月記詩抄』正続(ちくま学芸文庫)のような伝記的著作と、あれこれ定家周辺に関連する書籍を渉猟し、特に系統立てることもないまま読み漁るようになった。

──吉田隼人『死にたいのに死ねないので本を読む』草思社、2021年、p165

明月記も読まねばと思っていただけに、その名があったことが嬉しかった。

またメモにも書いたように、哲学と読書というと、読み差しの二階堂奥歯『八本脚の蝶』のことを思い出す。こちらも引き続き読まねばなるまい。

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こうして一冊の本が別の本への扉へとつながっているということが、読書の最大の愉しみなのかもしれない。

ここのところ私自身はというと、読書をどちらかというと義務的なものとして捉えていたし、そうでもなければさまざまなメンタルの持病を抱えながら本を読むことはできないのだけれど、それでも愉悦も味わいたい。

吉田氏の文章は少なくとも本を渡り歩く散歩のように読書を楽しむことや、知識を渉猟する喜びに満ちていたし、そこに彼自身の生の実感というものが濃縮されているのだろうということは、痛いほどに伝わってきた。

その喜びや楽しみを私も読書という体験を通じて肌で感じたい。

以前読んだ松岡正剛『多読術』には、以下のようなことが書かれていた。

本というのは、長い時間をかけて世界のすべてを吞み尽くしてきたメディアです。ギルガメッシュの神話から湾岸戦争まで、カエサルから三島由紀夫まで、ラーメンから建築まで、金融危機からサッカーまで、みんなみんな、本の中に入っている。むろん日記も手紙も小説も見聞記も、楽譜も写真も映画のシーンも名産品も、本になる。  

これって不思議ですよね。本の中に入らなかったものって、ほとんどないんじゃないでしょうか。しかも本は知識や主題ばかりでできているわけじゃない。たとえば「しまった」とか「ふわっとしたこと」とか「無常感」とか「もったいなさ」とか「ちょっとおかしい」も本になっているし、「くすくす笑い」も「失望感」も、「研究の苦難」も「人々の絶叫」も、「近所の風景」も「古代の廃墟」も、みんな、みんな本の中に入ります。こんなメディア・パッケージはほかにない。ウェブなどまだまだ勝負になりません。  

誰も数えたことはないでしょうが、世界の本の総体は圧倒的な文字量になっています。文字量が多いということはさまざまな「言葉」と「意味」がたくさん飛び交っているということで、もしも人間と動物を決定的に分けているのが「言葉」と「意味」だとすれば、やはりすべての人間的なるものの源泉は、その大半が本の中にあるといっていい。

──松岡正剛『多読術』筑摩書房、2009年。(電子版のためページ数不明)

私はこの思想に大いに感化されて、ここのところ日々本を読んでいる。

今年はうつやPTSDの悪化が長引き、思うように読めなかったけれども、それでも150冊以上読んでみて、まだ足りないと痛感するに至った。

今年の読書内容はごくごく薄いものばかりだし、来年はさらに密度を増していけるように励みたい。