ANIRON

ひとりごと日記

2021.12.25 クリスマスにシモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』を読む

ふたたび読書トピック入りしていました。

aniron.hatenablog.com

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お読みくださり、また評価してくださり、ありがとうございます。

今後とも当ブログをよろしくお願いいたします。

 

クリスマスだというのに、低気圧とうつの悪化により、朝5時まで眠れなかった。

著しく低調な時間がつづき、それを耐えがたく思いながらシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』の続きを読んだ。

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神の叡智の秘密は人間の悲惨(ミゼール)のなかにある。快楽のなかにはない。快楽の追求はことごとく人工楽園の追求である。酩酊と拡張の追求である。だが、なにも得るものはない。虚しく徒労に終わる追求であったという経験のほかには。自身のもろもろの限界と悲惨を注視することだけが、われわれを上位の次元に推しあげる。

──シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵岩波書店、2017年、p167、天秤と梃子 6

 

われわれが万象でないことを、矛盾のみが痛感させる。矛盾はわれわれの悲惨であり、われわれの悲惨の感覚とは実在性の感覚である。自身の悲惨をわざわざ捏造しはしないのだから。この悲惨は本物である。だから慈しまねばならない。それ以外はすべて想像上のものだ。

──シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵岩波書店、2017年、p172、不可能なもの 7

 

どれほど努力しても手に入れることが不可能だと思えるとき、その次元における限界があらわになり、ゆえに次元を変える必要性、いわば天井をつき破る必要性が示される。したがって、この次元で努力を使いはたすなら堕落する。限界を受けいれ、注視し、苦渋をあまさず味わいつくすほうがよい。

──シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵岩波書店、2017年、p173、不可能なもの 10

 

かくて徳は芸術的な霊感に極めて似ている。言語化できぬ霊感をあくまで言語化できぬものとして、言語化できぬ霊感にひたすら注意を方向づけつつ、書きあげる詩こそが美しい。

──シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵岩波書店、2017年、p175、不可能なもの 13

 

貴重なものが傷つきやすいのは美しい。傷つきやすさは存在の徴(しるし)だから。

──シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵岩波書店、2017年、p189、偶然 5

 

地上において神の憐れみ(ミゼリコルド)を裏づける四つの証左。観照する人びとへの神の顧慮。彼らの放つ輝きと彼らのいだく共苦(コンパシオン)(彼らのうちなる神のいだく共苦)。世界の美。第四の少佐は、地上における憐れみのまったき不在である。

──シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵岩波書店、2017年、p194、愛すべきものは不在である 9

 

神は悪人にも善人にも無差別に不幸をもたらす。雨や陽光をそそぐのとおなじに。(神は十字架をキリストの専売特許にとっておいたのではない。)純粋に霊的な恩寵によらずして神があるがままの個々の人間と接触することはない。この恩寵は神へとむけられたまなざしに呼応して、すなわち個人が個人であるのをやめる度合いに厳密に比例して与えられる。いかなる事象も神の顧慮とはいえない。恩寵のみが例外である。

──シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵岩波書店、2017年、p195、愛すべきものは不在である 12

 

孤独。その価値はどこにあるのか。たんなる物質(空、星、月、花咲く樹木)、すなわち人間精神よりも(おそらくは)価値的に劣る事象とむきあうとき、注意がはたらく可能性が高まる。ここに孤独の価値がある。人間たちとむきあっている時も、注意をおなじ水準に維持できればよいのに……。

──シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵岩波書店、2017年、p211、注意と意志 26

 

といった言葉たちが強く印象に残った。

憔悴している私には、ヴェイユの言葉がうつに効くという重い毛布のように覆い被さってくるのを感じる。

ヴェイユの説く信仰は厳密で、そこには一切の妥協はない。

異教徒の私が享受する資格もないのだけれど、それでも人間の悲惨さや不幸を神の御印(みしるし)と説くヴェイユの思想は、今の私にとって幾らかのなぐさめとなっている。

苦しみをただひたすらに見つめつづけることは、うつ病患者の私ならまだしも、常人の精神には耐えざることであって、常人にとってそのこと自体に価値はないのかもしれない。

しかしヴェイユは苦しみをひたすら受け入れることそのものに価値を置き、そこに神の御業(みわざ)を示す。それはキリスト者であるかどうかはさておき、困難な状況にある人間にとって、一つの福音であろう。

私がこの日記を通じてただただ苦しみをひたと見つめて綴ってきたのは、ひとえに苦しみの果てに光を見出したいという欲求があってのことだし、あるいはそうして導き出した光を読者の方々と共有したいという思いがあってのことだった。

それがどれほど叶っているのかはわからないのだけれど、ただこうしてヴェイユの思想が私の苦しみとともに、同じ地獄に立ってくれていることを、心からありがたく思う。

うつ病による深い苦しみの最中にあって、この本が友となってくれることに感謝したい。