ANIRON

ひとりごと日記

2021.12.26 本と病と

一日を通じて幾らか気分が良かった。朝から久しぶりに神棚に詣でた。

f:id:aniron:20211227133015j:plain

クリスマスだったので、一時期カトリックに傾きかけていた頃に買った聖像なども飾っていたのだけれど、私が迷いなく向かったのはその隣にあるこの神棚だった。

なんとも可愛らしい、そして美しいお宮の佇まいに、なんとも云えない懐かしさを感じた。まるでそこが私の帰るべき家であるかのように。

精神疾患を持つ実母と折り合いがつかず、私自身の信仰として村落共同体を保持するためにある神道を重んじることに引け目を感じていたのだけれど、それでも私のアイデンティティはふるさととともにあり、そして神道の神々とともにある。

aniron.hatenablog.com

それは拭い去りようのない事実だし、現にシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』を読んでいても、私はやはり異教徒なのだなと思う。

aniron.hatenablog.com

それは遠藤周作を読んでいても感じたことで、やはりキリスト教は私にとって一つのルーツではあるけれど、やはり異質なものとして映る。

主人は改宗するためには物語が必要なのだと云っていた。本を読んで感化されるのでは不十分なのだと。私自身はひたすら死にたいと思いながら日々を送っているけれど、死にたくて聖書の言葉と出会い、すっかり改心したという物語はどうにも弱いのだろうと思う。

それほど人間のアイデンティティというものは本来強固なもので、自分自身の力では拭い去ることはできない。

先日主人が読んだユヴァル・ノア・ハラリ『21 Lessons』について話した折に宗教の話になり、宗教なくして人間は生きることはできないという話を交わした。

私はかつて読んだ『いま世界の哲学者が考えていること』を引き合いに出して、「宗教はだんだん個人的なものへとなっていくだろうと書かれていた」ということを話した。

現にスピリチュアルなどはその一端を示しているのだろうし、私はそこに与しないけれども、そうして世俗化して個別のものとなった宗教が今日も誰かを支えていることは確かなことなのだろう。

その価値判断はさておき、そのような状況になっているという現状にはなんら変わりがない。

読んだ当時から宗教哲学についてもっと学ばねばならないと思っていたのだけれど、いまだに叶わずにいる。元々大学では宗教について専門的に学んでいたわけではなく、日本古代史のゼミで記紀神話を専攻し、個人的なレベルで民俗学をかじっていたのだけれど、宗教学にはまだまだ疎い節がある。

こうしてみると不勉強なことがまだまだ多いなと気づかされる。

それからしばらく『重力と恩寵』の続きを読んだ。

f:id:aniron:20211226084210j:plain

もう何年もまえに、自分の中に怠惰の宿痾(しゅくあ)を認め、その重大さを理解しておきながら、一掃する手をいっさい打たずにきた。どんな言い訳があろうか。*1

一〇歳に始まり、ひたすら膨れあがっていったのではないか。だが宿痾はどんなに大きくても有限である。それで充分だ。たとえ大きすぎてこの生において根絶する可能性を、したがって完徳に到達する可能性を奪われているとしても、存在する万象とおなじくこの宿痾もまた、愛を持って受容されねばならない。

──シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵岩波書店、2017年、p219、馴致8

私はこれをあえて誤読して、宿痾をそのまま自分の病気に置き換えて読んだ。

むろんそれは正しい読み方ではないが、本を誤読する自由も読者には許されている。

私の病気はおそらく完治しないで一生涯つづくが、それを有限であり、愛すべきものだと読み替えると、幾らか気持ちがなぐさめられる。生が有限である以上、病もまた私の死を以て終わる。今すぐ死ぬというわけではないけれど、それでも有限と云い切ってくれることがありがたい。

日々無窮に思われる病と付き合っていると、果てがなくて心身ともに参ってしまいそうになる。どこまで行っても終わりがなく、永遠にこの病を抱えて、病巣そのもののような心身を抱いて生きていかねばならないということに、ただひたすら徒労を感じる。

だがそれもやがて終わる時が来る。その時を自ら早めることは、少なくとも私はしたくはないので、ただその時を待つ。それでいいのかもしれない。

*1:

「怠惰の誘惑。諸限界を有する現実の生をまえにしての逃走。なかでも本質的な限界は時間。自分が神ならざることを感じさせることは、なにもせずにすまそうとする誘惑」(Annexe Ⅲ:Ⅵ-Ⅰ 406)

──シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵岩波書店、2017年、p387