ひたすらに消耗した一日だった。
夕方までなかなか身動きが取れず、『重力と恩寵』の続きを読んだ。
「裁いてはならない」。キリスト自身も裁かない。彼自身が裁きである。裁きの尺度としての苦しむ無辜の存在。
裁き、遠近法。あらゆる裁きは裁きをくだす者を裁く。裁いてはならない。だからといって無関心でもなく放棄でもない。それは超越的な裁きであって、我々には不可能な神の裁きの模倣である。
裁きは神の御業であって、人が人を裁いてはならないということは、ミッションスクール時代に強調されていたけれど、翻って今の私はどうだろうか。やたらめったら人を裁いてはいないだろうか。そう自問するとき、勝手な天秤に人をかけてしまっている自分に気づく。
私がキリスト教カトリックにおいてもっとも魅力的だと感じたのは、この裁きのシステムにあった。神が人を裁くために、己は人を裁いてはならない。同様にまた人も己を裁いてはならない。いわば神が抑止力となって、人間はその元で等しいものとして扱われる。
人権思想が西洋に端を発するのも、ひとえにこの信仰あってのものだろうと思う。
あるいは迫害され、虐げられた人々にとって、あるいは個々のレベルで抑圧されてきた人間にとって、キリスト教カトリックが一つの道筋を示していることは明らかで、この恩恵に浴して信仰生活に入ることで、私の抱える大小様々な問題は、ある一定のレベルまでは解決が可能なのかもしれない。
これまで毒親と既存の宗教との関係をどう捉えるべきなのか、私は疑問に感じてきたのだけれど、毒親ですらも裁いてはならないのだ。それは神がなせる業であって、人間のなすべきことではない。キリスト教カトリックの思想に則ればそのようなことになる。
ヴェイユは云う。
信仰とは知性が愛によって照らされる経験である。善の光としての真理。諸本質を凌駕する善。われわれが真理を認めるわれらのうちなる器官、それは知性である。われわれが神を認めるわれらのうちなる器官、それは愛である。
裁きのシステムを真理と解釈するのであれば、そこに信仰が成り立つことになるのだろう。少なくとも他の宗教にはない、優れたシステムだとは思う。その主宰者たるキリスト教の神を信ずるには、まだ力が及ばないのだが。
裁きのシステムにも神の恩寵はあり、そこには無窮の愛があると捉えることはできるかもしれない。
精神疾患を持つ毒親に対して、「この人も病気で苦しんでいるのだから、これ以上は私が裁くような真似はするまい。いずれ神様が然るべき方法で裁いてくださる」と思いとどまることはできる。ただし、それが厳密な意味で正しいのかどうか、ずぶの素人の私には判断しかねる。
とはいえ私は自分自身が真に信ずる信仰というよりも、思想としてのキリスト教には関心があるのだろう。その思想エッセンスの幾らかを享受して、心のなぐさめとしたいという思いはある。
それが信仰だと云うのならそうなのかもしれないし、あるいは厳密な意味で異なっているというのならば誤った価値観なのだろう。いずれにせよ私には現時点では判断しかねる。
しかしこれまで胸の内にわだかまっていた毒親と宗教という問題は、少しばかり自分の中で解決の糸口が見えてきた。
さらにヴェイユを読んだり、遠藤周作を読んだりして、キリスト教への理解を深めていきたい。