ANIRON

ひとりごと日記

2022.01.08 #1 宮沢賢治と遠藤周作

3時まで眠れず、コロナの感染者増加とともにうつが悪化してしまった。

原因は他にも色々とある。

先日の受診で、昨年12月末ごろに立て続けに起きた、心療内科への放火や、神田沙也加さんの自死などのニュースの記憶が掘り返されて、解離性健忘になっていたところに記憶が蘇って、深い打撃を受けてしまったらしい。

大金の誤送金の件もやはり頭から離れない。元の水準に回復するまでは苦しい時期がつづくのだろう。

とにかく八方塞がりで、自分の内的な要因だけが原因ならともかく、外的な要因がメインなので逃げようがない。もっとも、その点自責感は感じずに済むということはあるにせよ。

そして体調の悪化とともに、小説を書けないことの不全感が増大してしまい、やはり小説から背を向けるべきではないという自責感に駆られた。

自分自身の実力のなさが招いた結果だということは分かっているし、小説を新たに書きたいとも今は思えない。ただ小説を読むのが今はひたすらに苦しい。あったかもしれない可能性をまざまざと突きつけられる勇気が出ない。

 

昨年12月はひと月に11篇の詩を書いたらしい。書けば書くほど深い沼に足を取られそうになる。二冊の散文詩集を作っていた頃など、詩を書くことが楽しいと思っていた時期もあったけれど、今はただ苦しい。

その苦しみを昇華するためだけに詩を書き、ふたたび苦しくなってさらに書く。詩を書くことで自分は救われるのか、あるいは自傷行為の代わりとして書いているのか、よくわからない。

誰かに見せることなく黙々と書きつづけている間、濃縮されてゆく闇から逃れられないと感じる。

修羅という自意識を持ちながら、日蓮宗という希望の光を求めた賢治は、なぜ童話を誰にも見せることなく書き、何度も推敲を重ねつづけられたのだろうということを時々考える。

宗教という理想が彼を支えていたのだろうか。しかし私は信仰にすでに敗れている。それでもなお信仰を求めつづけずにはいられない己の弱さと向き合うことにも、いかんせん疲れている。

賢治の作品を読めば、その答えの幾らかが見えてくるのだろうかとも思う。

いずれにせよ切実な動機があって初めて成り立つ読書体験というものは確実にあるのだから、今は心が求めるままに賢治を読むのがいいのだろうと思う。

また新たな装画の本が出たので、こちらも買わねばなるまい。Twitterをフォローしている日下明さんのイラストに惹かれているので、ぜひ入手したい。

先日買った『宮沢賢治とクリスチャン』も届いたばかりだ。

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こちらは宮沢賢治キリスト教というトピックの論文を読んで、さらに掘り下げたいと考えて手に取るに至ったのだが、いまだに読めていない。

日蓮宗という強い信仰を持ちながらもキリスト教的世界観をたびたび描いた賢治の信仰のあり方はどのようなものだったのか、強い興味がある。

ちなみに賢治に関しては、これまでにもさまざまな評論を読んできた。

特に詩人の天沢退二郎が著した『宮沢賢治の彼方へ』は感じるところが多かったから、ふたたび読み返したい。

今年は賢治にとって記念すべき年というわけではないけれど、賢治に私淑する年にしてもいいのかもしれない。以前宮沢賢治全集を買って、途中まで読んだきりになっていたので、これを攻略するのは一つの手だろう。

賢治もまた詩を書きつづけた人でもあった。彼の詩は難解だが、評論などで補助線を引きつつ、少しずつでも読んでいきたい。

もっとも、今は遠藤周作をしっかり読まねばならない。

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遠藤周作もまた宗教、キリスト教につながる文学を書きつづけた作家で、まだこのうちの二篇と、『影に対して』を読んだばかりだが、私にとってはかけがえのない作家になりつつある。

さらに『沈黙』『深い河』と、うつで弱り、信仰を見失っている今だから読める作品は数多いはずだ。

ここのところ日記を読むのが好きなので、できれば日記にも目を通したい。

そうして少しでも自分の外側に目を向けようとしなければ、どんどん闇は濃くなっていく一方だ。ここのところ読書意欲が落ちているのだけれど、またここで気持ちを新たに読書の扉を開きたい。

 

追記

夜、あまりにも切羽詰まってしまって、小説を捨てて詩を書くことをどうしても受け入れがたく思っている自分に嫌気が差した。

しかしふとミッションスクールでかつて指導された、聖母マリアの受胎告知に際する「神の御旨を受け入れること」をふたたび思い出し、恥を捨てて心中でキリスト教の神に祈った。

これがもはや受け入れるしかない運命であるのならば、そしてそれが神の御旨に沿うものであるのならば、今はせめてそれを受諾する力をください、と。

以前聞き知った動画に、神学者ラインホールド・ニーバーの「変えられないものを受け入れる勇気」という言葉が出てきた。

変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして両者を識別する知恵を与えたまえ

 

──ラインホールド・ニーバー

病もまた、私にとっては受け入れるしかないもので、それは18歳の時から逆らうまいと思ってきたから、今でもこうして生きていられるのだろうと思う。

それを創作でも行うだけの謙虚さが、つまるところ私には足りていなかったということなのだろう。

上の言葉は神学者が発したというのはやはり興味深い。

神という存在があってはじめて己の弱さを知り、その御旨にかなうように生きようと人間は思い至れるのかもしれない。

私は今のところキリスト者ではないけれど、それでもカトリックの精神は私にとって大切なルーツの一つだ。

こうして思い起こしたことを糧として、さらに本を読んだりして思想に触れ、より良く生きていきたい。