ANIRON

ひとりごと日記

2022.01.13 詩と信仰と

読書トピックと創作トピックにお邪魔していたようです。

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読んでくださった皆様、評価してくださった皆様、ありがとうございました。

今後とも当ブログをよろしくお願いいたします。

 

3時まで眠れず、低気圧と月経が重なって著しい不調に見舞われた一日だった。

まともに起きているのもつらく、まるで生きている意味を見いだせない。

日中は強い抑うつ感と無力感に見舞われて、早めにココア共和国への投稿を済ませておいてよかったなと思う。

頓服を処方してもらえなかったため、なんとかやり過ごす他なくて、夕方に仮眠をとり、それから本を読んだ。

選んだのは片柳弘史神父の『始まりの言葉』だった。

その発端となったのは、厄入りにと天然ピンクダイヤモンドが嵌め込まれたクロスモティーフのネックレスを贈ってもらったことだった。

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snowrabbit21.hatenablog.jp

キリスト教カトリックには度々ふらりと近寄っては、また離れることを繰り返していて、もともとミッションスクール出身なので、確かに私のルーツではあるのだけれど、それでもやはりアイデンティティにはなり得ないと思ってきた。

それでもここのところ詩の道を選ぶことに強い葛藤を抱いて、その結果これはもはや私の意思を超えていて、神の御旨が詩歌の道を選ばせるのであれば、それに従う他ないと思い詰めてきたことは書いた通りだ。

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夜、あまりにも切羽詰まってしまって、小説を捨てて詩を書くことをどうしても受け入れがたく思っている自分に嫌気が差した。

しかしふとミッションスクールでかつて指導された、聖母マリアの受胎告知に際する「神の御旨を受け入れること」をふたたび思い出し、恥を捨てて心中でキリスト教の神に祈った。

これがもはや受け入れるしかない運命であるのならば、そしてそれが神の御旨に沿うものであるのならば、今はせめてそれを受諾する力をください、と。

 

そうした信仰のあり方が正しいのかどうか、今ひとつ自信をもてずにいのだけれど、この本を読んでいると、度々神の手に委ね、御旨にかなうようにと祈るという文言が出てくる。

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委ねる祈り 1月23日

祈るときは、異邦人のように

くどくどと述べてはならない。……

あなたがたの父は、願う前から、

あなたがたに必要なものをご存じなのだ。(マタ6・7-8)

 

必要でないものは、願っても与えられないし、

本当に必要なものは、願わなくても与えられます。

すべてを神さまの手に委ね、

み旨が行われますようにと祈りましょう。

私の信仰はもはやカトリックに拠るところが大きくなってしまったのかもしれない。

その衝撃と、同時に片柳神父の言葉の数々に深い安堵を覚えた。

洗礼を受けるかどうかは現時点では決められないけれど、それでも私の精神の深いところには、やはりキリスト教カトリックの影響があったのだとようやく思い至ったのだった。

人間はどうしようもない困難に陥った時、ようやくそこで神というものと向き合うことになるのかもしれない。

主人はかつて改宗するには物語が必要なのだということを語っていたけれど、私にとっての物語は、小説を捨てて詩を書くことを選ぶという行いにあり、その葛藤に端を発して信仰を自覚するに至ったのだということになる。

この道を選ぶことに確証を持てているわけではないけれど、それでも私の半生の転換点には必ずキリスト教カトリックの存在があった。

高校受験をして第一志望に落ちてミッションスクールに通うことになった経緯もそうだし、大学で推薦を受けて都内のミッションスクールの大学に通うことになり、そこで主人と知り合ったことも同様で、結局のところ自分の力で選んだものはきっとそう多くないのだろうと思う。

そうして無力感に満ちた私の心に、今こうして聖書と片柳神父の言葉が沁み入ってくる。

そのことをまっすぐに信じきれない弱さを抱えながらも、今はせめて重んじたい。