こちらの記事が創作トピック入りしていました。
お読みくださった方々、ブクマをはじめ、評価してくださった方々、ありがとうございました。
今後とも当ブログをよろしくお願いいたします。
歌会始めの日だった。
TwitterのDMを通じて行っているこの歌会も、今月でもう6回ほどになる。短歌ユニット「おりひめ歌会」のお相手のまさやまさんと一時間ほど歌会を催して、彼女の練り込まれた歌の数々に改めて魅せられるとともに、まだまだ自分の読み方は浅いなと思い至った。
まさやまさんは国文学専攻の方なので、歌の読み方も地に足がついているというか、私のように飛躍したりはせずに、テキストに則って忠実に読んでくださる。
私もそのことを意識して、前回はいささか飛躍に富んだ読み方をしてしまったという反省もあり、身体と物体という彼女の短歌の特徴的な側面から読んだ。
日々短歌を読んでいて、少しばかり短歌を読む目が育ってきたなと思ってはいても、歌会の場に出てみると、まだまだ読み方が甘いなと自覚する。
私たちのユニットであるおりひめ歌会には、指導者はいないし、互いの研鑽意欲だけが頼りだ。
今回は現実と幻想の扱いについても話が及び、私は融合させて詠む人間であり、まさやまさんは乖離させることで二つのイメージの相違を喚起させるという狙いがあるという話になった。
私自身の立場はこれからも変わらないけれど、それでもまだまだ向上の余地が多分にあると気づくに至って、さらに多くの歌集を新たに読んだり、再読したりしながら、その塩梅を模索していきたいと思う。
短歌を詠むことから今は少し離れて、もっぱら詩を書くことに注力する日々がつづいているけれど、最後にまさやまさんから「雨伽さんの歌が好きです」と評価していただけて、それが私にとって何よりの糧となる言葉だったのだということを思い出した。
ここのところ詩を書くにも、短歌を詠むにも、自分ひとりで作品と向き合いつづけることを良しとして、他者からの評価から目を背けようとしてきた自分をようやく自覚した。
詩を書くのが楽しかった頃は、Twitterやカクヨムで様々な好意的なメッセージをいただいて、それがとてもうれしかったのだ。
しかし今はただひたすら苦行のように詩を書きつづけている。苦しいけれど、書かずにはいられないから詩を書いていて、それがココア共和国で幾らか評価されてはいるけれど、やはり心中は少しも楽にならない。
詩を通じて、絶望を描くことを通じて、私は他者とつながろうとしてきたはずなのに、いつの間にか他者を遠ざけ、拒むようになってしまっていたなと思う。
まさやまさんの「好き」という評価は、それだけに私にとって詩歌を作る楽しさを改めて思い起こさせてくれた言葉だった。
自分自身の詩歌を選ぶ目を培わねばならないという思いもあり、またPTSDの再燃を懸念するあまり、ネット上に作品を載せることを避けてきたけれど、今ふたたび載せるのもいいのかもしれない。
少なくとも自分の中だけで握りしめていては、私の場合はあまり良い結果にならないのだなと思い至った。
そういうわけで、カクヨムとnoteで短歌22首を公開した。
PTSDの病状によってはnoteは下げるかもしれないが、カクヨムには残しておきたい。
また詩も少しずつでも載せていければと現時点では考えている。過去作はこちらからお読みいただけるので、ご興味がある方はぜひお読みいただければと思います。
雑誌への投稿や、賞への投稿を優先したいため、スローペースになるかもしれないけれど、それでもふたたび足を踏み出したい。