おかげさまでこちらの記事が読書トピック入りしていました。
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以下、アニメ版平家物語のネタバレを含むのでご注意ください。
さてこの日アニメ版平家物語を完走した。FODに加入して視聴していたのだった。
中盤までは日常終末SFアニメだなと思いながら観ていた。
歌舞伎で演じられる平家物語とは全く違う、戦争に主眼を置かず、あくまでも貴族的な日常が崩壊してゆく様を描く。いわば耽美的な平家物語と云っていい。
戦争が謡(らしき未熟な演出のもの)によって片づけられてしまうところが不満で、あくまでも「語り」を意識した平家物語を重んじた演出として、志したいところは分かるのだけれど、能楽や歌舞伎などに学生時代は親しんできた身からすると、どうにも謡の拙さが引っかかった。
その根本的な要因は、カタルシスが得られないという一点に尽きる。終始間延びした終末の予兆が手を変え品を変えて語られつづけていて、そこに決定的なカタルシスは生まれ得ないのではないかと危惧していたのだ。
鵯越の逆落としも、那須与一の扇を射落とす場面も、ワンシーンで語られてしまうことに物足りなさを感じていた。なんとも危機感のない、のっぺりとした戦争描写と云っていいのではないかと思う。
ただこのアニメの主眼が戦争ではなく、あくまでも日常にあるということを考えれば、それは新たな平家物語の読み方とも云えるのかもしれない。
最終話において、ようやく戦争は戦争然として描かれる。イルカがこちらに押し寄せてきたら終わり、という描写には真に迫るものがあったし、劇伴もそれに伴ってクライマックスを迎えた。
そこから平家の一門が水底へ落ちてゆく場面が始まる。ただ、ここで描かれたクライマックスも、これまで描かれてきた日常シーンあってこそのカタルシスといったところで、戦争の鬼気迫る様子はやはりない。
清経、維盛の入水という一連の経緯も、悲哀とカタルシスが極限に達するというよりは、むしろ落ちぶれてゆく「貴族」の「あわれ」さとしてしっとりとしたタッチで描かれるし、第3話に描かれる厳島での水遊びのシーンあってようやく引き立つ場面として描かれている。
最終話でもびわと安徳天皇、徳子の乗った船、つまるところこの物語における非戦場、あるいは日常に視点が集中し、やがてそのかつてあった日常が崩落するというところで、物語は最大の見せ場を迎える。
そこで少し前にびわが結った徳子の髪が重要な役割を果たし、びわというキャラクターがここにきてようやく役割を果たすことになる。
つまりこの物語はどこまでも日常アニメであって、その日常がいつまでも終わらなければいいのに終わってしまう、崩壊してしまうという意味以上のものは持ち得ないし、それ以外に読み解くすべはないのだろうと思う。
個人的には維盛推しで、維盛の線の細い貴族趣味な風貌や、その心情の繊細さがとても好きだったし、また義経の美貌の敵役というポジションも大変魅力的だったと思う。
ただこの物語においてはあまりキャラクターというものが重視されてはいない。
びわというキャラクターも、語り継ぐ以上の役割を与えられるのはようやく最終話になってからということになるし、正直なところいてもいなくても構わない存在でしかない。
結局のところ主役なき日常アニメ版平家物語というのが妥当なのだろう。
ただ告白しておくと、私は先に述べた最終話のクライマックスシーンから号泣してしまい、嗚咽しながら観ていた。
そういう点では共感的に、あるいは肯定的にこの物語を享受していたということになるし、自分自身では気づかぬうちに、随分と感情移入していたらしい。
できればビジュアル本と、原作も買って読めればと思っているし、サウンドトラックに至っては毎日のように聴いているので、できればCDが欲しい。
友人から勧められてFODで一足先に観ることになった平家物語だが、感想を聞いたところ、勧めてくれた当の本人よりも私の方がハマってしまったらしい。
とにかく友人には感謝したいし、共に観ていた主人にも感謝したい。