今月は17篇の詩を書いたらしい。
ここのところ作詩の意欲が落ちていると思っていたけれど、現実がどうしようもなければどうしようもないほど、体調が悪ければ悪いほど詩が捗るので、永遠に詩を書いていられそうだ。
詩は友人だと書いたけれど、それは共依存的関係なのかもしれないと思う。
そろそろどこかで公開してもいいかもしれない。
現代詩手帖への投稿はかねてから考えているので、まずはそちらを優先させたいという思いが強い。そうして公開することを渋ってしまう。
他者からの承認を得なければ書けないというタイプではないので、このままほとんどの作品を誰にも見せることなく書きつづけることもそう苦痛ではないのだけれど、どこかでシェアしたいという思いもある。
同人詩集を作る予定は今のところおぼろげながらにあるけれど、ひとまずこの一年は書き溜めようと思う。
過去の二作の詩集とは全く趣の異なる詩集になりそうなので、表紙は植物ではなく、写真を用いたいと思っている。
耽美的な作風から療養詩歌に舵を切って、そろそろ一年になる。
この間、正直なところ療養詩歌というジャンルを突き詰めていくことに迷いが生じたこともあったけれど、石田波郷『惜命』や、赤尾兜子『虚像』はその道標となってくれた。
そう考えてみると、私に最も大きな影響を及ぼしている詩歌は俳句ということになる。
ここのところほとんど俳句を読めていないし、作る方も止まってしまっているのだけれど、できればどちらも再開したい。
積んでいる句集も何かと多いし、子規の評伝も買ったまま積んでいる。
とにかく自分の信じる道を今は進むしかない。その結果はココア共和国佳作入選という形で結実しているし、さらに上達を目指していきたい。
誰にも見せずに詩を書くことについては、やはり小説講座からの反動というところが大きいのだと思う。
それが自分を守るすべともなっているし、また詩を読んで選ぶ力を養うという点でも役立っている。
宮沢賢治や、シモーヌ・ヴェイユは生前ほとんど他者に原稿を見せることなく文章を描きつづけていた。彼らの作品をより深く味わいたいという思いもある。
ヴェイユの『重力と恩寵』を読んでいた昨年末は、ここ数年の読書体験の中でも格別の体験だったと感じている。
『シモーヌ・ヴェイユアンソロジー』も積んでいるし、未入手だが『工場日記』も気になっていて、ぜひ入手して読みたい。
また宮沢賢治に関しては全集が手元にあるので、そちらを引き続き読んでいきたい。
どうにも私は意思薄弱な人間で、これと決めた通りに読書計画をこなせないのだけれど、それでもそうして乱読した結果ついてくるものもあるのだと信じている。
かねてから再読したいと思っている外山滋比古『乱読のセレンディピティ』も読みたいし、主人に教えてもらった吉増剛造『詩とは何か』はさっそく注文した。
今は読書意欲ががくっと落ちているので、とにかく少しでも読みたいと思った本は躊躇なく買っておきたい。