ANIRON

ひとりごと日記

2022.02.01 アウトプット中毒と久しぶりのブルーベリー読書会

朝からすこぶる消耗していた。

久しぶりの無気力状態で、おおよそ何もする気になれない。

致し方ないので、ポケモンアルセウスをプレイすることにして、わずか35分ばかり遊んだ。

プレイの詳細はまた追ってこちらで公開していきたい。

snowrabbit21.hatenablog.jp

それからしばらく何をするでもなくぼーっとしたり、眠ったりしていた。

低気圧の影響もあったけれど、どうやらPMSの期間に入ったらしく、うつの悪化は不可避だ。

うつが悪化する前兆として、眠る時間が後ろ倒しになっていたのと、眠る前の不全感が募っていたので、おそらく近々うつが悪くなるだろうということは考えていたし、それを避けようがないのが本当につらい。

月経のたびにうつが悪化するので、ピルの服用を考えたいが、体質的に合わず、向精神薬も少しもPMSに対して全く効かない。

なぐさめに先月は命の母ホワイトを服用したけれど、効果はあまり実感できなかった。

運動にはPMSを改善する効果があるのは実感として分かっているのだが、体が重だるくて運動どころではなく、リングフィットもここ数日プレイできずにいる。

とはいえいつものような強烈な希死念慮には見舞われていないのがせめてもの幸いと云ったところだろう。

希死念慮に見舞われればその分作詩が捗るのだけれど、それはあまり健全な形の創作とは云えない。

そうは云っても詩が書けないのも困りもので、ここ数日は作詩の意欲が湧いてこない。

本もまともに読めない日々がつづいているし、全体的に停滞している。その分自責感も強い。

今はひたすらブログ記事を書くことだけが、私にとっての創作行為となっていて、先週は執筆時間が12時間に及んだけれど、今週はすでに6時間近くブログを書いている。

snowrabbit21.hatenablog.jp

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私は基本的に人のブログをあまり読まずにもっぱら書いているので、6時間という数字はほぼ執筆時間に相当する。

少しセーブしたいのだけれど、それでもアナログでも書きつづけてしまうのだからしょうがない。

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ここのところTime Timerのベルもスルーして書き続けることが増えてきてしまっている。

ホワイトボードは強制的に「今日は休み」と決めることができるけれど、書けなかったらその分自責感になって跳ね返ってくる。

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せめてもう少しインプットの割合を増やしたい。

そう思いながらも動けずにいると、主人が帰ってきた。珍しくお酒を飲まない日にしたようなので、ルピシアのほうじ茶・鬼の焙煎を淹れた。

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それから主人は届いたばかりの林望訳『平家物語』を読みはじめた。

あまりに熱心なので、ぼーっと眺めていると、先日主人がお使いで買ってきてくれた古川日出男訳も取り出して、訳を比較しながら読んでいる。

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林望訳の『平家物語』は和本に使われる粘葉本だと教えてくれた。でっちょうぼん、と読むらしい。平置きにして180度開く様子を見せてくれて、天地の余白を広く取っているところも評価していた。

粘葉本とは

jpclassic.art.coocan.jp

粘葉装(でっちょうそう)という帖の作り方では、糸を用いずに糊だけで綴じる。一枚の紙を二つに折ったものを次々に重ねていくのだが、このとき折り目から約五ミリほどに糊をつけて貼り合わせる。したがって、折の内側の見開きは一枚の紙なので百八十度開くが、折の外側の見開きは糊代の分だけ紙面が狭く、百八十度完全に開くことはできない。粘葉本を開いて行くと、開ききる頁とどうしても浮き上がってくる頁があるのはそのためである。このような冊子の装幀方法を粘葉装と呼び、この方法で制作された冊子を粘葉本という。
一般的な和式製本では、小口が袋状になっているために紙の片面しか表にあらわれない。これに対して、粘葉装の場合は、紙の両面が使われることになる。継ぎ紙では、切り継ぎや破り継ぎといった技法で紙を切って繋ぎあわせる(継ぐ)ことがあるが、粘葉装ではこの継いだ跡が両面から見えることになるのである。
また、開ききる見開き頁は一枚の紙だが、次の見開きは左右の頁が別の紙でできている。この右頁は前の見開きの左頁の裏である。したがって、前ページの見開きのデザインが次の頁のデザインにも影響を与えることになる。このために、継ぎ紙による粘葉本の制作は、一枚の料紙を制作するのと異なり、デザイン的な難易度がことさら高いのである。
「王朝継ぎ紙」の原点とも言える「本願寺本三十六人家集」は、粘葉本であり、このため、研究会では継ぎ紙の技法の他に粘葉本の研究を進めている。

というものらしい。

装丁にこだわった作りになっているのは少なくとも私にも伝わってきた。

どうやら主人は編集者なので目の付け所が装丁に集中するらしい。

アルセウスでも御三家のモクローを選んだと思ったら、コースアウトして、ギンガ団本部の書類や紙のディテールを調べ回っていた。

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特に2枚目の紙を吊るしているところに関心を持ったらしく、どうして吊るしているのかが気になって仕方がないらしい。

しばらく歩き回って棚なども見て回っていた。

そういうことを思い出しながら、主人を眺めていたのだけれど、一向に私に構う気配も見せず、もっぱら本に集中しているので、このままブルーベリー読書会にしようと思って、私も読み差しの小松和彦『聖地と日本人』を読み進めた。f:id:aniron:20220202130543j:plain

ここで云うところの日本人とは京都人のことであり、京都から見た異界を、能楽をベースとして解説しているという一冊だ。

学生の頃ならば難なく読めた本だが、読書体力が弱りきっている今はひたすら鈍足で読んでいる。

能楽をベースにした小説を書きたいということは先にも書いたけれど、今の私には小説に取り組むだけの健康状態を保てない。

今は詩歌にステ振りするしかない状況なので、ネット書店で澤田瞳子能楽ものがたり 稚児桜』や、白洲正子世阿弥』といった能楽関連の本を注文した。

それから主人が買ってきてくれたチョコオールドファッションと、ルピシアダージリン1stフラッシュでお茶をした。

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話題としては主人の関心のある禅の話がメインで、『禅についての十五章』の話を聞いた。

国家権力、社会、文化との関わりから見る禅宗の歴史
仏教は中国化する過程で南北朝時代には国家権力と結びついて華やかに発展したが、僧尼の腐敗ももたらした。そのころ中国仏教の一宗派として形成されつつあった禅宗は、僻地で細々と坐禅と農業労働に励んでいた。唐代初期に実施された均田制が劃期となって、僧団は経済的に自立し、禅宗は革新的性格を得て隆盛を極めたが、晩唐五代に地方の権力者の保護下に入るとしだいに革新性を失って新しい展開を生み出すこともできなくなり、宋代の強力な国家権力のもとで衰退へと向かった。本書は、禅宗の歴史を教義の展開としてではなく、社会的・経済的・政治的背景のもとに、禅宗の形成から発展、隆盛と衰退にいたる過程を描くものである。『禅宗十五講』(中華書局、2016年)の全訳

私は結婚して禅宗が宗旨ということに一応なっているので、私も自分なりに禅の勉強をしたいとかねてから考えていた。

卑近なところにある一般向けの本を何冊か読んで、鈴木大拙『禅とは何か』も積んでいる。

実際のところ本来の意味での禅は出家しなければなし得ない修行形態なのだけれど、それを日々の生活のレベルに落とし込みたいというのが私の考えで、一方主人は禅宗の教団生活のはじまりに関心があるらしい。

同じトピックでもまた異なるアプローチがあるのだなと興味をそそられた。