ぐったりとした一日だった。週明けはどうしても疲れるので、スローペースに過ごそうと思ったのだが、朝はともかく、昼から過活動になってしまい、これを書いている2/7 18時時点では著しく消耗している。
ここのところ本もまともに読めていないし、創作もできていない。
短歌は先週末に一時間ほどかけて詠んだけれど、それきりになっているし、詩もしばらく書いていない気がする。
仮に私が双極性障害だとしたら、軽躁状態が終わってうつ状態に入ったということなのかもしれない。
とにかく体が鉛のように重く、食欲にはムラがあって、ある時とない時の差が大きい。
抑うつがひどい状態になればいきおい詩を書かざるを得なくなるので、もう少し抑うつ状態になれば楽なのだが、どうやらリングフィットの成果の賜物なのか、PMSの症状が今回は軽いらしく、希死念慮とはほど遠い、ただただ疲労ばかりが募る状況になっている。
このまま動き続けるとそのうち抑うつ状態に転じるのだろうなというギリギリのラインを攻めつづけていて、少し自分を休めるすべも覚えたい。
先週は14時間弱はてなブログを書いたらしい。
私はあまり人のブログは読まないので、はてなブログに費やしている時間はほぼ執筆時間に相当する。
書くことにしがみついている節はあるなと思うし、書くことでストレスを逃さないと生きてはいけないから、平易なブログの文章をひたすら書いているのだけれど、それでもブログだけを書いていても充足感は得られない。
やはりフィクションがないと人間は生きていけないということをここのところ主人とよく話す。
私自身は小説の道を捨てたことで、「物語」から疎外された人間だと思うことが増えてきたけれど、それでも人間は「物語」なくしては虚しい人生を歩むことになってしまう。
あらゆるところに「物語」は生まれうるし、実際に私も架空の村の話を作って主人に話したりする。
ただでさえこのコロナ禍で現実が差し迫ってくる中、フィクションに拠り所を求めなければ、心の安寧は得られない。
詩も、短歌も、一つの物語だ。たとえ短くても、その中には濃縮された物語の世界が詰まっている。今はそのことを信じて、詩歌の道を進むしかない。
以前主人と話していて、「主人公がどうにもならない状況で一つの道を選んで物語が始まるというストーリーが好きだ」と語っていた。
主人は大学及び大学院で国文学を専攻していただけあって、ナラトロジーに即した、構造的分析を加えながら物語を読む人で、私は小説を書いていた時期には反目を覚えていた。構造主義的なプロットを作ることに、物語を作ることの切実さはどれほど残されているのだろうと感じていたのだった。
しかし、我が身を振り返ってみると、「自分の力ではどうにもならないこと」を発端として、私は小説を捨てて詩歌の道を選ばざるを得なくなった。竈門炭治郎が家族を殺されて鬼殺隊に入らざるを得なくなるという「鬼滅の刃」の物語の始まりのように。
私こそが物語の主人公だ、と声高に云いたいわけではなく、ただそうして差し迫った状態からしか人間は一つの道を選ぶことはできないし、そこに必然性も生まれ得ないのだということを強烈に感じたのだった。
なんとも皮肉な話だと思うけれど、もう小説の道に戻るつもりはない。
今は自分に与えられた道を精一杯進むしかないのだと思う。自分の意思だけで選び取れる道というものは本当はごくごく限られていて、やむに止まれぬ状況の中から選ばざるを得なかった道が、私という人間の進む方向を決定づけるのだろう。
これはごく個人的な話だし、他者にとってそれが同様であるかはわからないけれど。
ただ「選ばざるを得なくなった」ということのみにフォーカスを当てて、その理不尽さに腐ってしまうのはもったいない。せめて残された道を、草葉をかき分けながらも自分自身の足で進みたいと思う。