ANIRON

ひとりごと日記

2022.02.10 フィギュア男子フリープログラム観戦

昼頃フィギュア男子フリープログラムを観戦した。

フィギュアは2006年のトリノオリンピックからハマって、しばらく実家の面々と追いかけていたのだけれど、町田樹さんが引退してからは、応援したい選手があまりいなくて遠ざかっていた。

今回のオリンピックも、このようなコロナの感染状況の中で、また中国や国際社会が様々な問題を抱える中での開催となり、東京オリンピック以降、オリンピックのあり方に幻滅して、観るのはやめようと思っていたのだが、どうしてもトリノオリンピックの演技が忘れられず、フリーは観ることにしたのだった。

最も心惹かれたのは、ジェイソン・ブラウン選手の演技だった。古き良きフィギュアスケートが彼の演技には随所に見られて、トリノでの感動が蘇るような心地がした。

鍵山優真選手の演技も素晴らしかったし、一時期まで応援していた宇野昌磨選手の演技も、難易度の高い構成に挑んで、その結果銅メダルを手にするという結果を残したところが素晴らしかった。ネイサン・チェン選手はほぼノーミスの圧巻の演技を見せた。

ただ、羽生結弦選手の演技とその評価には疑問を感じたところがあった。それはクワッドアクセルに挑んで失敗し、結果的に4位になり、その後クワッドアクセルの記録が大会記録に残ったという点だ。

その後のメディアの動きを見ていると、それでも賞賛するという動きが強かった。確かに大会記録に前人未到のジャンプを残したという点は評価されて然るべきものなのかもしれない。

しかし、この4年間で学業を捨ててまで並々ならぬ熱意で練習に打ち込み、技術を磨き上げて、本番でその真価を発揮して、ショートフリー共に1位の成績を残し、堂々と金メダルを獲得したネイサン・チェン選手の方がプロアスリートとしてのあるべき姿なのではないかと思うのだ。

あたかも「無難に」4回転を跳んで3連覇を狙うことよりも、クワッドアクセルに挑むことの方がずいぶんと評価されているようだけれど、それはもはや神話的ヒロイズム、選手をいたずらに神格化して消費する、商業主義的なショーとしてのフィギュアスケートであって、プロアスリートのすべきことではない。

オリンピックには様々な要素があるのかもしれないけれど、基本的にはメダル以上の価値判断をすることは難しいのだと思う。

何か目新しいことに挑んだとしても、結果を残せなければ競技としての価値判断の俎上には上らない。結果は残せなかったけれど、記憶と記録を残した。それも一つの側面ではあるけれど、フィギュアスケートはショーである以前にプロアスリートの競技だ。

ネイサン・チェンが示した演技は、そのプロアスリートとしての矜持を示したという点でもとても意義のあるものだったと感じる。

ずいぶんとチクチク言葉になってしまったが、できる限り批評的観点から書いたつもりだし、それでもこの観戦記録を残しておきたいと思う。